第525話 忘却と嘘


「あかり、顔を上げて」


 飛鳥の声が、いっそう甘い空気を纏うと、それは、赤い頬を色づかせ、あかりの身体に深く深く染み込んだ。


 体が熱くて、どうにかなりそうだった。


 絆されちゃいけない。

 心を鬼にして、突き放さなきゃいけない。


 だけど、そう思えば思うほど、身体は、言うことを聞かなくなった。


 まるで私の意思に、逆らおうとでもしているみたいに──…


「いじわる、ばっかり……しないで…下さい…っ」


 瞬間、あかりは、弱々しく言葉を放った。


 反論できたのは、ただそれだけで、顔は、ずっと上げられずにいた。


 見られたくない。

 目を合わせたくない。

 

 だけど、顔を上げなければあげないで、頬が赤いことを、自ら認めているようでもあって──


「いじわるなんて、してるつもりはないよ?」


 すると飛鳥が、優しく笑いながら


「俺は、を聞いてるだけ」


「それが……いじわるだと、言ってるんです…ッ」


「どうして? そんなに言いたくないの? 赤くなってる理由」


「だから、赤くないと」


「赤いよ。まるで『好き』って言われてるみたい」


「……っ」


 会話の波間に、確信めいた言葉が揺蕩たゆたう。


 そのせいか、頬だけじゃなく、耳まで真っ赤になって、薄暗い教室内では、悟られてしまいそうだった。


 いや、顔が赤いことなんて、とっくに悟られてる。


 きっと、私の気持ちですら、全部──


「俺のこと、まだでいてくれたみたいで安心した。俺も変わらないよ。今もずっと、あかりのこと」


「やめてくださいッ」


 瞬間、あかりは、飛鳥の言葉を遮ると


「その先は、いわないでと、前にも…言ったはずです…っ」


 目を合わせず、あかりは、ひたすら懇願する。


 前にも、お願いした。

 初めて気づかれた、あの時に。

 

 それだけは、絶対に言わないで──と。

 

 すると、その先を、なかなか言わせてくれないあかりに、飛鳥は肩を竦めながら

 

「いじわるなのは、どっち? 告白ひとつさせてくれないなんて」


 あきれたように笑う声は、いつもと変わらず、優しかった。


 だけど、どこか切なさを感じさせる声でもあった。


 聞いて欲しいのに、聞いてもらえない。

 そんな寂しさが宿る声。


 だけど、言われたくない。

 聞きたくない。


 あなたに『好き』と言われてしまったら、私は、この意思を貫けなくなるから──


「……神木さん。私は、告白されてません。だから、あなたは、


 震えるような声を立て直して、ハッキリとそう告げた。


 あなたは、誰にもフラれてない。


 だから、私にフラれたなんて思わないで欲しい。


 あなたは私なんかに、フラれていい人じゃないから……

 

 だが、飛鳥は、意味が分からないとでも言うように


「なにそれ? あかりは、俺に『フラれない男』でいて欲しいの? 無敗神話でも確立させたいのかな?」


「そうですよ。誰にもフラれず、無敗のままでいてください」


「いいよ。じゃぁ、俺のこと好きって言って? あかりが、俺を受け入れてくれたら、無敗のまま、一生を終えられるよ?」


「……っ」


 突き放すようなあかりの言葉を、あっさり利用して、飛鳥が、クスリと笑う。


 そして、言葉の意味に気づいて、あかりは、再び、頬を赤らめた。


 一生──その言葉に、とまどう。


 まるで、この先、とでも言うようで……


「俺のこと、好きって言って?」


 俯くあかりの耳元で、また飛鳥が囁く。


 すると、あかりは、ふるふると首を振って


「っ……無理です。言えません……お願いですから、このまま何も言わず、してください。全部、なかったことにして、忘れてください」


 俯き、必死に叫ぶあかりは、飛鳥の瞳を見れないままだった。


 サヨナラすら、終わりの言葉すら、面と向かって伝えられない。


 だが、これが、あかりの精一杯だった。


 すると、飛鳥は


「あかりは、忘れたいの?」


「…はい」


「今までの思い出、全部、なかったことにして?」


「はい」


「できるの? そんなこと」


「できます」


「無理だよ。忘れられるわけない」


 強い言葉が、音楽室に響いた。

 

 いつの間にか、月光のメロディーはやんでいて、飛鳥の澄んだ声だけが、やたらと耳に響いた。


「俺は忘れられないよ、あかりのこと。あかりも、そうだろ」


「違います。私は……忘れます。忘れて、全部、なかったことに……っ」


「ウソつき。そんなこと無理だって、わかって

るくせに」


「……っ」


 飛鳥の言葉に、あかりは、小さくくちびるをかみしめた。


 わかってる。

 

 なかったことになんて、できない。

 忘れることなんてできない。


 でも──…


「もう、嘘つかないで?」


「……え?」

 

「俺、前にいったよね『ずっと待ってる』って。だから『自分を苦しめるのは、やめろ』って。それなのに、なんで、まだ嘘をついて、自分を苦しめてるの? それに、告白してなければ、フラれたことにならないってのは無理があるよ。俺は、あかりに無視されるたびに、フラれた気分になってた」


「……っ」


 その言葉を聞いた瞬間、罪悪感に押しつぶされそうになった。


 傷つけてる自覚はあった。でも、直接いわれると、胸が張り裂けそうになる。


 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい……ッ


 心の中だけで何度も謝れば、赤らんだ頬は、あっさり青くなって、俯くあかりの顔には、暗い影が落ちた。


 すると、飛鳥は、そんなあかりの頬に触れて

 

「あかりって、嘘をつくのが下手だよね。本当は、俺のこと傷つけたくないくせに、無理してばっかり」


 自分に嘘をつくのは、辛くない?


 好きな人に、嫌いっていいつづけるのは、苦しくない?


 無理して、嫌われようとして

 無理して、無視しを続けて

 無理して、言いたくない暴言を吐く。


 そして、その度に、あかりは傷ついて、傷ついたまま、また無理ウソを重ねる。


 きっと、に──


 あかりがいう『嫌い』は『好き』の裏返し。


 それは、よくわかっているはずだった。


 だけど、もう見ていられなかった。

 

 早く、楽にしてあげたい。

 


 自分の心に


 嘘をつかなくてもすむように──



 

「もう、


「……え?」


 瞬間、むりやり顔を上げさせられた。


 飛鳥の整った指先が、優しくあかりの頬をつつむと、近い距離で、碧い瞳と目が合った。


「待つっていったけど、もう待たない」


「……っ」


 逃げ場のない距離。


 見上げれば、いつになく真剣な瞳と目が合って、あかりが目を見開く。


 だけど、もうこれ以上、あかりを傷つけたくなかった。


 嘘をつかせたくない。


 苦しむ姿を、見たくない。


 だから──


「堂々巡りは、もう終わり。。俺を拒まなきゃいけない理由。あかりが、一人で生きていこうとしている理由。全部、話してくれるまで──絶対に離さない」




 追いかても、追いかけでも


 掴まらなかった。



 まるで、つかんでは消える



 雪のように──



 だけど、それも、今日で終わり。




 あかりが、どんなに拒んでも



 ここで、サヨナラだけは





 絶対にさせない。

 

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