第526話 限界と記憶
『あかり、見てみてー』
ふと思い出したのは、数年前のことだった。
あれは、年末のころの話だ。
クリスマスが過ぎて、世間が新年を迎える準備を始めた頃、私は理久と一緒に、彩姉ぇの家に行った。
『この前、蒼ちゃんにポロポースされたんだ。綺麗でしょ~』
雪がシンシンと降り積もる中。彩姉ぇは、とても幸せそうな顔をして、私にピアスを見せてくれた。
彩姉ぇの"聞こえない左耳"だけについたピアスは、蒼一郎さんと、お揃いのものだ。
一つのピアスを、片方ずつ二人でつけて、永遠の愛を誓ったもの。
それは、シンプルだけど、とてもオシャレなピアスで、二人らしさがよく現れたアクセサリーだった。
『うん、すごくキレイ! 彩姉ぇも、ついに結婚するんだね!』
そして私は、その結婚報告を、純粋に喜んでいた。
高校生の時に付き合って、約10年。
彩姉ぇが、やっと好きな人と結婚できるのだと──
『よかったね、彩姉ぇ! 私もうれしい~!』
『ありがとう、あかり~。やっと蒼ちゃんと結婚できるよー!』
彩姉ぇと蒼一郎さんは、付き合った当初から、お互いに結婚したいと思っていたらしい。
だが、それが、なぜ10年もかかったかというと、蒼一郎さんの仕事が、軌道になるのを待っていたからだった。
安定した仕事は、家庭を作る上でも重視される。
それもあってか、いずれ子供を持つことを考え、ある程度の蓄えができたから結婚しようと、二人で決めていたらしい。
そして、やっとその目処が立ち、クリスマスの夜。蒼一郎さんは、正式に彩姉ぇに、プロポーズをしたそうだ。
『彩姉ぇ! 結婚式はあげるの?』
すると、横から理久が口を挟んだ。
幼稚園児の理久は、とても無邪気で、ぐいぐいせまる理久に、彩姉ぇは、照れた顔をしながら
『春頃、挙げようって思ってるよ。蒼ちゃんが、桜が咲くころに付き合い始めたから、その頃に式を挙げたいねって』
『へー、すごく素敵』
『ありがとう! 二人とも、絶対に来てね! あ、それと、近いうちに挨拶に行くから』
『挨拶?』
『結婚のご挨拶! やっぱはら、両家の許可はもらわねいとね』
『あ、そっか。お父さんにも伝えとくね』
『うん、お願い。兄貴とお義姉さんには、ずっと心配かけてたし、やっと安心させてあげられるよ』
『心配?』
『そう、このまま結婚しないんじゃないかって、ずっと心配してたみたい。まぁ、私ももうすぐ30だし、子供の事とか考えると心配にもなるよね?』
『子供?』
『うん。35歳を過ぎたら、色々とリスクが高まるらしいんだよ。一番は、母体のリスクなのかな。妊娠高血圧症とか糖尿病とか、そういった合併症を引き起こすリスクが高まるんだって。あとは、流産しやすくなったり、障碍がある子も生まれたり……まぁ、私達は、いくつだろうが、難聴の子を産む可能性はあるんだけどね』
『……あ』
その話を聞いた瞬間、微かに心臓が跳ねた。
難聴は、遺伝しやすい障がいだと言われている。
だから、彩姉ぇも、それに関しては、少しばかり危惧していたのかもしれない。
『ねぇ、もし耳の聞こえない子が産まれたら、どうする?』
『どうするって、何も変わらないよ。難聴でも、他の障害でも、健常でも、目いっぱい愛して、幸せにする! だって、好きな人との子だよ! 可愛くないわけないでしょ?』
そういって、ほほえむ彩姉ぇは、とても温かかった。
優しくて、明るい彩姉ぇなら、きっと素敵なお母さんになれると思った。
そして、彩姉ぇは、私の手を掴むと
『あかり、この世界に生まれた人たちはさ、みんな、幸せになる資格があるんだよ。障がいがあってもなくても、それは変わらない。だから、あかりも普通に恋をして、普通に結婚して、普通に生きなさい。あかりを好きになってくれる人がいたら、迷わず手を取っていいんだからね。障害があっても『普通』を諦める必要はないんだから』
彩姉ぇの手は、とても温かかった。
そして、彩姉ぇは、いつも私に、明るい未来を提示してくれた。
だから、大丈夫だと思っていた。
「うん、ありがとう。彩姉ぇも、幸せになってね」
「もちろん。蒼ちゃんと一緒に、世界一幸せな家族を作っちゃうから!」
そういって笑った顔が、今も忘れられない。
幸せになると思っていた。
きっと、未来は明るいものだと信じていた。
希望にあふれた未来が、ずっとずっと続くものだと──
だけど、無理だった。
彩姉ぇは、亡くなってしまったから──
この世界は
障碍者に、とても厳しい世の中だと
気づいてしまったから──…っ
*
*
*
*
「全部、話してくれるまで──絶対に離さない」
そういわれた瞬間、あかりの脳裏には、まるで走馬灯のように、これまでのことが蘇った。
楽しかった記憶。
幸せだった記憶。
そして、彩音が亡くなった時の記憶。
だけど、飛鳥の真剣な表情から、互いに限界が来ているのも分かった。
どちらかが折れないかぎり、いつまでも堂々巡りで終わりがない。
交わることのない運命は、お互いの心が疲弊させて、苦しさと、愛しさと、どうしようもなさが、雪のように降り積もっていく。
だけど、拒む理由は、どうしても話せなかった。
理由なんて、ひとつしかない。
障碍があるからだ。
私には、遺伝的な障がいがある。
難聴という聴覚の障碍。
そして、私が産む子供には、その障碍が、遺伝してしまう可能性があった。
『障がい者は、不幸』だというレッテルが貼られた、この世界で、私の元に生まれた子は、ちゃんと、幸せになれるだろうか?
産まれてきたことを、後悔したりはしないだろうか?
【あかり、嘘ついてゴメン】
彩音の最期の言葉を思い出すたびに、あかりの胸は苦しくなった。
あんなにキラキラした笑顔をして、とても幸せそうだった。
誰も疑わなかった。
私も、家族も、蒼一郎さんも。
誰もが、みんな、明るい未来を信じていた。
でも──
『彩音が自殺したのは、俺たちのせいです!』
あの日の、蒼一郎さんの言葉が蘇る。
『彩音の耳の話をした途端、両親が反対しはじめて……障碍のある女なんて
その言葉は、思い出すたびに、心を抉った。
彩姉ぇが、命をたった理由。
人生に絶望した理由。
それを、嫌という程、理解させられた。
だけど、そんな話をしたところで、誰も幸せにはなれない。
(言いたくない……っ)
私の障碍は、子供に遺伝するかもしれないなんて。
そのせいで、あなたの家族に反対されるかもしれないだなんて
家族を、誰よりも大事にしているあなたには、絶対に言いたくない。
「ぃえません……ぜったぃ」
今にも泣きそうな顔で、あかりは言葉を紡いだ。
この意思だけは、絶対に曲げられなかった。
だが、飛鳥だって、折れる訳にはいかなかった。
「言わないなら、このままキスするよ」
「ッ……」
瞬間、頬に触れていた指先が、あかりの唇をなぞった。
今にも口づけられそうな雰囲気に、あかりは混迷する。
「か、かみきさ……っ」
「どっちがいい? 選んで」
「どっちって…っ」
──どっちも選びたくない場合は、どうすればいいの?
究極の選択に、あかりは、困り果てた。
意地っ張りなのは、よくわかっていた。
彼を困らせてばかりなのも、よくわかっていた。
でも──
「……っ」
瞬間、潤んだ瞳が、飛鳥を見つめた。
まるで『許して』とでも言いたそうなあかりの瞳に、飛鳥は躊躇する。
これは、惚れた弱みだろう。
そんな目で見つめられたら、あっさり許してしまいそうになる。
できるなら、意地悪なんてしたくなかった。
だから、ここまで、追い詰めたくなかった。
でも、このままじゃ、何も変わらない。
飛鳥は、さらに距離を詰めると、あかりを、限界まで揺さぶる。
「そんな顔してもダメだよ。諦めて話して。言えば、しないよ」
「いいませんッ」
「じゃぁ、していいの?」
「ダメです!」
「……ッ」
あれもダメ、これもダメなあかりに、飛鳥は眉をひそめた。
話せば楽になるはずなのに、ここまでしてもいわないなんて──
(……ホント、可愛くない)
可愛くない。
全く、素直にならなくて。
好きなくせに、嫌いと言って。
自分を傷つけて
いつも、俺を振り回す。
それなのに、こんな姿ですら、どうしようもなく、愛しいと思ってしまう。
(負けたくない……っ)
まるで、意地と意地の張り合いだった。
人生をかけた、大きな駆け引き。
自分でも、ここまで人を好きになるなんて思ってもいなかった。
可愛くないのに、可愛いすぎて。
いじっぱりなところも、いじらしくて。
忘れたいなんて、一切、思えない。
ずっと、そばにいて欲しい。
俺の隣で、笑っててほしい。
だから、負けられない。
ここでサヨナラなんて、絶対にできない。
瞬間、飛鳥の長い髪が、サラリと流れた。
音楽室はとても静かで、人の気配は一切なかった。
触れた頬の熱と、指先に伝わる唇の感触。
それが、あまりにも鮮明で、飛鳥は目を閉じると、宣言通り、あかりに口付けた。
「ん……っ」
甘い香りが、辺りに舞った。
花のような香りが世界を包んだ瞬間、飛鳥の唇が、あかりに触れていた。
その甘やかな熱は、あかりにとっては、初めての感覚だった。
そして、決して忘れることのできない記憶を、飛鳥は、またひとつ、あかりに刻みつけた。
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