第527話 優しいキス と 知らない世界


 花のような香りが世界を包んだ瞬間、飛鳥の唇が、あかりに触れた。


 唇と唇が重なる感触。それは、あかりにとっては、初めての感覚だった。


 柔らかな熱は、染み入るように全身に溶け込んで、息もできないくらい甘い感覚に囚われる。


 とても熱くて、とても優しくて。


 そして、その熱のせいか、目を閉じていても、彼の存在を敏感に感じとってしまう。

 

「っ…ん」


 動揺から、微かに身じろぐが、思うように力が入らなかった。


 飛鳥の浴衣を、弱々しく掴むあかりは、為す術もなく、それを受け入れる。


 だけど、そのキスは、とても優しいキスだった。


 初めてのキスは、何もかもが優しい。


 頬にふれる指先のぬくもりも、月明かりに照らされた彼の金色の髪が、額を撫でるのですら、全て優しかった。


 そして、その光景は、まるで夢の中に迷い込んだのかと思うくらい幻想的で──


 だけど、それは紛れもない現実で、ややあって、二人の唇が離れた瞬間、飛鳥が、色めいた声でささやく。

 

キスこれも、忘れられるっていうなら、忘れてみれば?」


 イジワルなその言葉には、切なさが滲んでいた。


 『絶対に忘れさせない』という強い意志と、寂しさが重なる声。


 その甘いキスは、ほんの数秒だったにもかかわらず、まるで永遠のようにも感じられた。


 そして、その甘い記憶は、飛鳥の言う通り、しっかりとあかりの中に刻みこまれた。


 忘れられるわけがない。


 好きな人と交わした、初めてのキスを──…

 


「……っ」


 触れた唇の感触は、離れたあとも、ずっと残ったままだった。


 頬は言い逃れができないくらい真っ赤に染まっていて、身体も熱い。


 鼓動は加速するように早くなって、まともに顔すら見れなかった。


 そして、恥じらうように口元を隠したあかりをみて、飛鳥が問いかける。


「もしかして、だった?」


「……っ」


 その純粋な問いかけに、体が滾るように熱くなった。


 初めてだった。


 これまでキスをしたことなんて、一度もなかった。


 そして、その表情は、それをはっきりと肯定していて、飛鳥は目を細める。


 普段なら、こんなことは絶対にしない。


 同意なく、キスをするなんて。


 あかりの初めてを、奪うような形で口付けるなんて──


 だけど、謝るつもりはなかった。


 嘘ばっかりついてる、あかりが悪い。


 忘れたくないくせに、忘れるなんて言ってる、あかりが悪い。


 俺を好きになったことですら、全てなかったことにして


 何度も何度も自分を傷つけて、ひとりぼっちになろうとしてる、あかりが悪い。


 だから、もうこうするしかないと思った。


「嘘をついたら、またキスするから」


「……え?」

 

 再度、囁けば、飛鳥は、あかりの目を見つめたまま


「嘘をついてるってわかったら、何度でもキスをする。それが嫌なら、本音で話して。あかりは俺に、どうしてほしい?」


「……っ」


 ──どうしてほしい?


 それは、あかりのことを気遣ってるのが、よく伝わる言葉だった。

 

 これ以上、あかりが嘘をつかないように。

 自分を傷つけることがないように。


 その強引な言葉は、先ほどのキスと同じように甘くて、そして、その優しさが、あかりの心を深く締め付ける。


(きっと、あなたほど、私のことを思ってくれる人は、いないでしょうね?)


 だから、ここで全てを終わらせたら、私はいつか、後悔するのかもしれない。


 『あなたの想いにこたえていたら、どんな未来になっていたのだろう?』と──


 私は、一人きりの人生を歩みながら、あなたのことを、一生忘れられずに生きていくことになるのかもしれない。


 なにより、自分の本当の気持ちは、嫌というほどわかっていた。


 声を聞くだけで、嬉しくなって

 隣にいると、安心して


 些細な愛情表現に、毎回、心を揺れぶられてる。


 あなたに会うたびに、私は恋をしていると実感する。


 はなれたくないと、思い知らせる。


 私は、こんなにも、あなたが好きで


 忘れたくなんかなくて


 どうしてほしい?といわれたら


 本当は、傍にいてほしい。


 サヨナラなんてしたくない。


 あなたの想いに応えて


 ずっと、一緒に生きていきたい。


 あなたと一緒に




 『幸せ』になりたい。




 でも――




「…………」


 涙目のまま、あかりは声を殺し、言葉を閉ざした。


 言えない思いを、嘘をつかない代わりに『沈黙』で押し通した。


 しんと静まり返る音楽室には、作曲家たちの肖像画が、二人を見守るように並んでいた。


 月明かりがさす世界は、とても静かで、まるで時が止まったようだった。


 だけど、どれだけ待とうが、あかりは言葉を発しなかった。


 『言わない』という、強い意志。


 それは、きっと、飛鳥のため。

 好きな人の未来を守るため。

 

 すると飛鳥は、何も言わないあかりに向けて──…

 

「ベートーヴェンが、全聾ぜんろうだったって知ってる?」

 

「え?」


 その言葉に、あかりは困惑する。

 

 突然、切り替わった話題は、ベートーヴェンの話だった。


 ベートーヴェンには、があったという話。


「20代の後半くらいから、だんだん耳が聞こえなくなって、40歳くらいで、全く聞こえなくなってたんだって。『第九』を初めて披露した時は、観客たちが、拍手喝采する音ですら気付かなかったって……だけど、それでも、こんなにもたくさんの名曲を生み出してるって、凄いよね?」


 ベートーヴェンの肖像画を見つめたあと、飛鳥は、あかりに向かって笑いかけた。


 だが、あかりは、その話に混沌としていた。


 確かに、ベートーヴェンは、全聾だったと言われている。


 耳が聞こえなくなるという障碍は、音楽家としては致命的だった。


 だけど、それでもベートーヴェンは、悩み苦しみながらも、一生涯、音楽を愛し、曲を作り続けた。


 天才と一口にいうが、難聴という障碍を抱えながら、それでも音楽の道を諦めなかった、その並ならぬ努力の積み重ねが、彼を天才へと押し上げたのかもしれない。


 だけど、なんで?

 なんで、今、そんな話をするの?


「俺には想像もできないな、音のない世界で、曲を作ろうとするなんて。それに、もし自分の耳が聞こえなくなったらって考えたら、上手く生きていける自信がない」


「………」


 その言葉には、あかりも同意せざるを得なかった。


 私だって、自信がない。

 

 私の右耳は、全く聞こえてない。


 それなのに、今聞こえている左耳の聴力まで失ってしまったら、私は、生きていけるのだろうか?


 片方だけでも聞こえているから、今は、まだ『普通』に生活することができる。


 だけど、両方とも失ってしまったら、私の世界は、どうなってしまうのだろう?


「でもさ、自信がないのは、だよね」


「え?」


 だが、その後放たれた飛鳥の言葉に、あかりは困惑する。


「……あたりまえ?」


「うん。きっと、知らない世界のことを想像したら、誰だって不安になるよ。良くないことばかり考えて、自分には無理なんじゃないかと決めつけて。そして、その不安が、人から未来を奪っていく」


 この世は、わからないことばっかりだった。


 障碍を持つということも

 結婚をして、子供を育てるということも

 大人になるということも


 何もかもがわからなくて、知らないことばかり。


 だから、俺たちは、勝手に悪い想像をして、勝手に不安を募らせてる。


 俺たち兄妹弟が

 大人になるのを、怖がっていたみたいに──

 

「きっと、いくつになっても知らないことは、山ほど出てきて、俺たちは、その度に不安になるんだろうね。知らない世界のことを考えて──だけど、俺たちの知らない世界で、生きている人は確かにいて、その世界で、こんなにも凄いことをしている人たちがいるんだって思ったら、なんだか、希望みたいなものも感じるよね?」


 希望──それは、知らない世界でも生きていけるということ。


 音のない世界で名曲を作り続けることができた、ベートーヴェンがいたように──


「きっと、人の可能性って無限に広がってるんだろうね。俺たちの知らない世界でも──」


 知らない世界──そう言って微笑む飛鳥に、あかりは、胸がいっぱいになった。


 確かに、そうなのかもしれない。


 ベートーヴェンがそうだったように、きっと、人には、無限の可能性が広がっている。


 それは、障碍があってもなくても変わらなくて、誰もが等しく、幸せになる権利を持ってる。


 なら、怖がらず、進めばいいのかもしれない。


 その先にある、幸せな未来を信じて。


 でも──

 

「なんで、急に、そんな話……っ」


 話したくなかったこと。

 悟られたくなかった話題。


 それを、飛鳥の方から告げられ、あかりは、酷く動揺していた。


 すると飛鳥は、あかりの目を見つめながら


「会えなかった間、色々考えた」


「え?」


「あかりが俺を拒絶する理由。始めは、自分を疑った。俺、こんな容姿だし、正直、ダメな理由がありすぎで、ちゃっとくじけそうになった」


 それは、少し冗談っぽく、だけど、真剣な瞳は変わらなかった。


 そして、飛鳥は、さらに続けた。

 

「その後は、あかりのことを考えた。もし、俺があかりだったら、何を思うか? そして、ふと思った。もしかしたら、あかりは、障碍があることを気にしてるんじゃないかって」


 あかりは、いつも謝っていた。

 

 聞きとれなくて、聞き返した時。


 言葉を理解できなくて、変な返事をしてしまった時。


 そして、聞こなかったがために、無視してしまったとき。


 だけど、そこに行き着くまで、かなり時間がかかった。


 俺にとって『片耳難聴』という障碍は、恋や結婚を諦めなくてはならないほどの障碍ではなかったから。


 でも、あかりにとっては、違うのかもしれない。


 俺は、あかりの世界を知らない。


 だからこそ、あかりの本当の思いも、恐怖も、なにもわかってあげられない。


 だから──…


「もっと教えて、あかりのこと」


「……え?」

 

「何をすれば、あかりは笑ってくれる? 何に困っていて、どうすれば、あかりの不安はなくなる? もし、障碍があることが、俺を拒む理由なのだとしたら、あかりの不安は、全部、俺が取り除くよ」


 人は見えないからこそ、未来に不安を抱く。


 考えれば考えるほど、不安という鎖に囚われて、雁字搦めになる。


 そして、身動きがとれなくなれば、もう一人では進めなくなる。


 なら、俺が、その鎖をといてあげる。


 未来の不安なんて、全て、取り払って──

 

「だから、教えて。あかりがいる世界のこと。あかりが怖がっている、未来のことを──」


 




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