第528話 不安と独り


「教えて。あかりがいる世界のこと。あかりが怖がっている、未来のことを──」


 その碧い瞳は、いつになく優しい色をしていた。


 耳にすんなり馴染む声は、春のこぼれ日のように柔らかくて、その一連の言葉を聞いた瞬間、あかりの胸は、温かなものに包まれた。


 ここまで言われて、嬉しくないわけがなかった。


 何もかも全て、受け入れようとしてくれる。


 障がいがあることですら、理解しようとしてくれる。


 だけど、その嬉しさ以上に、驚きの方が勝っていた。

 

「なんで……ッ」


 沈黙が破られた瞬間、心の壁も同時に破られた気がした。


 祭りの夜は、とても穏やかな月の日なのに、まるで、嵐でも吹き荒れているようだった。


 閉じ込めていた想いが、一気に溢れ出して、押さえが効かない。


 気づかれた。

 私が、一人を選ぶ理由に。


 彼を拒み続ける理由に、障がいが関係していることを──

 

 だけど、わからなかった。


 どうして、あなたは、そこまで、私に寄り添おうとしてくれるの?


「なんで、私なんかに、そこまで……っ」


「なんでって、覚えてないの?」


「え?」


「俺は、よく覚えてるよ。初めて、あかりの家に行ったと時のこと」


 初めて──そう言われた瞬間、あかりは、飛鳥を初めて、家に招き入れた時のことを思い出した。


 ミサをさん見かけて、突然倒れた飛鳥を、あかりは、自分の家で休ませ、介抱した。


 真っ青になって、震えながら脅える飛鳥は、今にも消えてしまいそうで、とても心配したのを、あかりは、よく覚えていた。


 すると飛鳥は、優しく微笑みながら


「あの時、あかりは、俺の傍で話を聞いてくれた。『話したくない』と、当たり散らす俺の傍に寄り添って。『大切な人たちだからこそ話せないなら、他人の私が、いくらでも聞く』って。『だから、そんな顔しないで』って……『あなたは決して、独りではありません』って。そう言って、安心させてくれた」


 あの時、あかりがいなかったら、どうなっていたんだろう?


 そんなことを、時折、考える。


 あの日、一人でミサさんに遭遇していたら、俺は、立ち上がれただろうか?


 あかりが、寄り添ってくれたから、前に進む勇気を持てた。


 絶対に開けないと決めていた心の箱を、こじ開ける気になれた。


 克服するのは、決して楽ではなかったけど、あの日をきっかけに、俺の未来は、少しずつ変わっていった。


 心にたまっていた不安は、一つ一つ消えて、きっと、今の『幸せ』があるのは、あの日、あかりが、寄り添ってくれたおかげだ。


 みっともなく泣きじゃくる子供みたいな俺を、優しく慰めてくれた。

 

 ふわりと笑って、話を聞いてくれた。


 だから──…


「だから、俺も、あかりが苦しんでるなら、傍で話を聞いてあげたい。不安なことがあるなら、一緒に悩んで、一緒に乗り越えていきたい。だから、もう諦めてよ?」


「──!」


 瞬間、さらりと浴衣の袖がゆれた。

 

 あかりの桜柄の浴衣が、飛鳥の紺碧の浴衣の中に、つっぽりと収まれば、その瞬間、抱きしめられたことに気付いた。

 

 力強い腕が背中に回って、肌のぬくもりに、鼓動が早まる。


 どくんどくんと高鳴る心臓の音には、一体、どちらのものなのだろう?

 

 それを、確認する間もなく、抱き寄せ、抱きしめられたあかりの耳元で、飛鳥がささやく。


「あかりは、独りでは生きられないよ。俺が、絶対に離さないから」


 諦めての続きの言葉には、優しさが溢れていた。


 『一人にはさせない』と

 『ずっと、傍にいる』と


 そんな想いを込めた言葉は、抱きしめられたことで、より鮮明に伝えられた。


「っ……」


 すると、泣き声にも近い声が、あかりの唇からもれた。

 

 傍にいたい。

 ずっと、あなたの傍に──


 もう、押さえきれる気がしなかった。


 自分の本音を、隠し通すことができない。


 すると、次の瞬間、あかりが手が、ゆっくりと動き出した。


 震える指先は、飛鳥の浴衣を掴もうとさまよう。まるで、返事を返そいとでもするように──


「……ぁ」


 だが、その時だった。


 飛鳥が微かに声を上げ、あかりは、動きを止めた。


 なにごとかと、あかりが飛鳥を見つめる。


 すると、飛鳥は、音楽室の外をみつめていて、どうやら、外の気配を感じ取ったようだった。


 耳を澄ませれば、遠くの方から、ガヤガヤと人の話し声のようなものが聞こえてくる。


 それは、あかりには聞こえない小さな声だったが、飛鳥には、なんとなくわかる話し声だった。


 多分、子供と大人の声。

 家族連れだろうか?


 あれ?

 次は、隆ちゃんたちだったような?


 そんなことを思いつつも、次のグループが、特別棟の方へやってきたのがわかって、飛鳥は、名残惜しそうに、あかりから離れた。

 

「人が来たし、そろそろ、出た方がいいかもね」


 近かった距離が離れれば、どこか寂しさを覚えた。


 あかりのさまよった手は、結局、飛鳥に触れることはなかった。


 だが、一旦冷静になったからか、あかりは、恥ずかしそうに、頬を赤くし俯いた。


 キスをされて、抱きしめられて、あんなことまで言われた。


 思い出せば、すぐに身体が熱くなって、これ以上、目を見ていられなかった。


 そして、そんなあかりの反応を見て、飛鳥も思い出してしまったらしい。


 口付けたときの感触は、まだ残っていた。


 その柔らかな熱は、飛鳥の心にも、しっかりと刻まれて、穏やかな表情を、あっさり桃色に変える。


 だが、それを悟られないように、飛鳥は、気持ちを切り替えると、浴衣の袖から、カードを取り出し、スタンプを押した後、一度集めたベートーヴェンの楽譜を、教室中に、ばらまいた。


「? なにを、してるんですか?」


 そして、その行動を見て、あかりが問いかける。飛鳥は、いつものように、にっこりと笑いながら

 

「次の人たちが来るみたいだし、もう一度、殺人現場を再現しとこうとかと思って」

 

 楽譜、全部集めてたせいで、一度、綺麗にしてしまった音楽室。


 だからか、飛鳥は、お化け役の人達の手間を考え、血塗られた楽譜を、そこら中にばら撒き、音楽室を元の状態にもどした。


 そして、次のグルーブか来る前にと、あかりの手を再び掴んだ飛鳥は、そのまま音楽室の外へと移動する。


 だが、さりげなく手を繋がれ、あかりの頬は、また赤くなった。


 繋がった手は、全てを包み込むような大きな手だった。


 女性みたいな綺麗な外見をしているのに、その手は、とても男らしくて、この人とだったら、どんな不安も乗り越えらるような気がした。


 なにより、もうと思った。


 ここまで、私のことを思ってくれる彼に、これ以上、嘘はつきたくない。


(……話して、いいのかな?)

 

 不安を、全て打ち明けて

 あなたの想いに、応えてもいいですか?

 

 音楽室をでれば、次は、美術室。

 そして、そこが、きっと最後の部屋だった。


 あかりは、飛鳥の手を振り払うことなく、ついて行く。


 そして、一方的に繋がったままだった手を、あかりは、やっと握り返した。


『私も、あなたの傍にいたい』


 そんな想いを、伝えるように──…

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