第174話 ゆりとミサ


 その後、飛鳥は風呂に入ると、自室に籠って高校からきたプリントに目を通していた。


 侑斗が海外にいるため、今は飛鳥が保護者代わり。重要な書類は父にお願いするが、通常のプリントは飛鳥が代わりに記入する。


 飛鳥はスラスラとペンを走らせ、二人分のプリントの記入を終えると、最後に認印が必要なのに気づき、自分の勉強机の2段目、鍵付きの引き出しをあけ、中を覗き見る。


「……あ」


 すると、その引き出しの中に入っていた、ある『モノ』を目にして、飛鳥は訝しげに目を細めた。


 整理された引き出しの中に入れられていたそれは「神木 飛鳥」と明記された──『預金通帳』


「これ、どうしよう」


 それを渡されたのは、先日、父が帰国した際『ミサ《あの人》』の話を聞いたあとのことだった。



 ◇◇◇



「それで、渡したいものってなに?」

「あー……それはな」


 熱を出した、あの日の夜。ベッドに座る飛鳥にむけて、侑斗がおずおずと差し出してきたのが、この『預金通帳』と『印鑑』だった。


 突然、差し出されたそれを目にして、飛鳥は酷く固い面持ちで、父をみつめ返した。


「なに、これ……?」


「あの時、ゆりがミサに刺されて、暫く入院してたのは、飛鳥も覚えてるよな?」


「……っ」


 その言葉を聞いて、飛鳥はキュッと唇を噛み締めた。


「あの時」のことは、今でも鮮明に覚えてる。


 鬼のように冷たい母の瞳に、肉を裂くような不気味な音。身体からとめどなく流れる生暖かい感触と、目を覆いたくなるような


 ──鮮やかな血の色。


 それは、忘れたくても、忘れられなかった、忌まわしい記憶だった。


「幸い致命傷には至らなかったけど、正直、刑事事件に発展してもおかしくなかったと思う。だけど、あの時ゆりは、ミサの事は一切、おおやけにせず、全て示談で解決させたんだ」


「……」


「ゆりの家庭の事情もあったけど、他にも、お前を『犯罪者の息子』にしてしまうのを躊躇ったんだと思う。夫の俺は縁が切れても、実の息子であるお前は、ミサとは『切っても切れない繋がり』があるから」


「……え?」


 示談──その言葉を聞いて、あの人が社会的に裁かれていないのだと、目の当たりにする。


 複雑な心境だった。


 ゆりさんが望んだこととはいえ、あんなことをしておいて?


 それに、仮に示談が成立して、刑事事件になっていないとしても『ミサ自分の母親』が『ゆり』を刺したのは、紛れもない事実。


 そして、自分が、その女の──息子であることも。



「そう……」


 犯罪者の息子──その言葉の重みを実感して、穏やかだった心臓が微かに心拍を早めた。


 耐えきれず父から視線をそらすと、飛鳥は落ち着かせるようにスっと息を吸い、その後また言葉を続ける。


「それで……そのお金は、なんのお金なの?」


 その言葉を聞いて、今度は侑斗が目を細める。


「示談でと決まったあとも、ゆりは、金銭的な要求をすることはなく、ただ『治療費だけ払ってくれたいい』といって、それ以上のものはなにも請求しなかった」


「……」


「あいつ、言い出したら聞かないし。結局治療費だけってことになって、退院後、一旦俺が肩代わりして、ミサに請求したんだ。だけど、ミサが俺の通帳に振り込んできたお金は、指定した額よりも、かなり多くて、アイツ、自分の身体に傷があるのを酷く気にしてたから、俺は『ゆりの身体に傷を残したことに対する慰謝料も含めた示談金』だと思って、ゆりに全額渡すことにした。だけどゆりは、このお金は飛鳥のためのものだといって譲らなくてな……『飛鳥のために使ってほしい』といって返してきた」


「え……?」


「確かに、示談金の相場は遥かに超えてたし、ゆりの言い分も分かるんだ。だから俺は、ゆりがそうしたいならと思って、結婚後、改めてこのお金をどうするか、二人で話しあった。ミサが飛鳥のためを思って振り込んできたのなら、飛鳥の将来のために使おうって考えた。だけど、お前は頑なにミサのことを忘れようとしていたから、ゆりが、このお金を使って、お前を育てることを躊躇ったんだ」


「……」


「それからは、飛鳥名義の通帳を新しく作って、決して使わないように、ゆりがずっと保管してた。いつか飛鳥が、自分から母親のことを聞いてきた時に『あなたのお母さんからだ』と言って渡してあげようって。このお金使い道は、飛鳥自身に決めさせようって」


「……」


「このお金はな、お前の『二人の母親』のからのものだ。ゆりの気持ちがこもった、ミサからのお金。渡すなら、きっと今だと思った。渡しておく、あとは飛鳥の───」



 ◇◇◇



「好きにすればいい……か」


 父の言葉を思い出して、飛鳥はその通帳を手に取った。


 いきなり、こんなもの渡されても困る。ゆりさんが、残してくれたお金なら、華と蓮のために使えばいい。だけど、元はあの人のお金。

 そう、思うと使いたくないのも確かで、いっそ寄付でもしてしまえば、後腐れなくすむのか?


 ぐるぐると考えるも、使い道なんて、思いつくはずもなかった。


「なんで、こんな……」


 ゆりさんは、きっと、俺が使うのを望んでる。


 でも、なにを思って?

 俺は、こんなにも、あの人が「嫌い」なのに。


 あの人は俺のことなんて、一切なにも考えてない。きっと、このお金も、ゆりさんにあてたもので、俺のためじゃない。


 なのに……なんで、こんなもの残したの?


 なんで?

 どうして?


 聞きたくても、聞けない。


 ゆりさんは




 もういないから──





「こんなの渡されても……使えるわけないのに……っ」






 ◇



 ◇



 ◇




「エレナ」


 階段を上り、二階にあるエレナの部屋に向かうと、ミサは部屋の入口から声をかけた。


 夜、九時前──入浴をすませ、部屋の中で一人呆然と窓の外を眺めていたエレナは、ミサに呼ばれ、窓から視線をそらすことなく、小さく返事を返した。


 母子二人で暮らすには広すぎる一軒家。

 その二階にある八畳の洋室が、エレナの部屋だった。


 ベッドに勉強机、女の子らしい装飾の本棚に、オシャレなローテーブル。


 そして窓にはラベンダー色の可愛らしいカーテンがかけられ、そこは雑誌に出てくるモデルルームのような、明るく可愛らしい部屋だった。


 ミサは、出窓の前に座り込んで外を見つめるエレナをみて、不意に「もう一人のわが子」のことを思い出すと、苦々しげに眉根を寄せた。


「エレナ……窓から逃げようなんて、考えないでね?」


「……なにいってるの? ここ二階なのに」


 母の言葉を聞いて、エレナが不安そうに母を見上げた。


 先日、母との約束を破ったエレナ。それは酷く母の逆鱗に触れてしまったようで、それからエレナは、学校とモデルの仕事の時以外、一人部屋の中に閉じ込められていた。


 だが、いくら家から出れないからといって、二階の窓から逃げようだなんて、命を無駄にするようなものだ。


「そうね。おかしなことを聞いたわ。忘れて頂戴」


「……」


 ミサはエレナの側まで歩み寄ると、エレナの視界を遮るように、窓のカーテンを閉めた。


「もう、寝る時間よ」

「……うん」


 エレナが出窓から離れる。


 すると、側にあった勉強机の上。手紙が二通置いてあるのを見つけて、ミサがまたエレナに問いかけてきた。


「エレナ……これは何?」

「……っ」


 机の上に投げ出された手紙を手にした母。

 それをみて、エレナはぐっと息を飲んだ。


「そ、それは、あの……クラスの子に……靴箱に入ってて」


 ガサッと手紙を開く音がした。ミサが視線を鋭くして、それに目を通す。

 一通は、男の子からのラブレターで、もう一通は、女の子から遊びに誘うような手紙だった。


「そう……ちゃんと断りなさいね?」

「……はぃ」


 冷たい声が室内に響くと、その後ビリビリと紙を破く音も聞こえてきた。


 二通の手紙が、ミサの手元で破かれ小さくなり、その欠片はパラパラと、ゴミ箱の中に消えていく。


「エレナ……」


 ミサは、エレナの元にゆっくりと歩み寄ると、目線を合わせるようにして膝をつき、エレナの綺麗な金色の髪をすいた。


 普段ツインテールにしている髪は、下ろせば腰下まで伸び、ミサはエレナの髪を撫で、白く滑らかな頬に指を滑らせる。


「お母さんの言うことを聞いていたら、間違いはないからね?」


「……」


「この世は恐ろしいもので溢れているの。可愛いエレナを利用しようとする人は沢山いるんだから……これは全て、なのよ」


 そう言って、娘をそっと抱きしめる。

 壊れ物を扱うように、大切に大切に──


「うん……わかってる。それに……私には、お母さんしかいないから」


 その言葉を聞いて、ミサは微笑む。


「いい子ね」


 その姿は、まるで女神のようなのに


「もう、あかりさんにも、会ってはダメよ?」


 その言葉はまるで、悪魔の囁きのようだった。

 エレナは、ミサを真っ直ぐにみつめると


「うん……もう、会わない。だって、あの人は、私を利用するなんでしょ?」


 エレナは、顔色ひとつ変えず、無表情のまま、そう吐き捨てる。


「えぇ……あの子はとても、悪い子よ」


 私からエレナを奪おうとする──悪い女。


 もう、絶対に奪わせない。

 もう、誰にも、渡したりしない。


 そういうと、ミサは、またエレナを抱きしめた。




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