第45話 転校生と黄昏時の悪魔⑬ ~交渉~



「……アイツに隙ができたら、お前だけでも逃げろ」


「え?」


 その言葉に、隆臣は大きく目を見開いた。なにを言っているのか分からなかった。


 俺、だけ……?


「っ!? バカ! そんなこと」


 ──できるわけねーだろッ!

 そう、叫びかけて、慌てて口を噤む。


 もし、逃げる算段を企てているなんて知れたら、この男は何をしてくるかわからないから。


「っ……」


 痛む体身を押さえながら、隆臣はゆっくりと立ち上がると、再び目の前の男を見据えた。


 一人だけ置いて逃げるなんて、出来るわけがない。


 だが、隆臣の体は、あまりの恐怖に微かな震えを伴っていて、その上、出口は男が塞いでいて、状況は明らかに不利。


「さて、どうしようか?」


 すると、男が、隆臣と飛鳥を交互に見つめながら、なにやら考え込んだ。


 その数秒の時間さえ、針で刺されているような息苦しさを感じた。


 そして、男の視線が、飛鳥から隆臣に移った瞬間──


「やはり、"君"は邪魔だな」


「ッ……!」


 酷く冷酷な瞳が隆臣を捕らえ、隆臣は無意識に後ずさった。


 だが、その背には、もう冷たい壁があって、それ以上、距離を取ることはできない。


 あまりの恐怖に、全身の毛穴から汗が吹き出す。


 ──このままじゃ、殺される。



「ねぇ、おじさん!」


 すると、その沈黙を破り、突然飛鳥が声を発した。


 自分とは全く違い、冷静に男を見据える、その姿に、隆臣はただただ瞠目する。


「俺と交渉しない?」


「?」


 そう言った飛鳥の言葉に、隆臣が驚き、男が首を傾げる。


「交渉?」


「うん。おじさん、いればいいんでしょ? なら、俺、おじさんの言うことなんでも聞いてあげる。だから、この子のことは見逃してくれない?」


「は?」


 その言葉に、隆臣は大きく目を見開いた。


(何……言ってんだ、神木……っ)


 思考が追いつかない。

 大人しくついて行くって──


「ははは、それはできないなぁ~。この子には、顔を見られてしまったからね、ここで始末しておかないと」


 だけど、何がおかしいのか、男は笑いながら、飛鳥の提案を受け流した。


 そして、その笑い声に、隆臣は更に身を竦める。


 この男は、子供を殺すことに罪悪感なんて一切抱いてない。それどころか──


「でも、この子の親、だよ」


 ──え?


 瞬間、続けざまにいった飛鳥の言葉に隆臣は困惑する。


(あれ? なんで……俺の親が警察官だって知ってるんだ?)


 そんなこと話した記憶なんて一度もない。

 それなのに──


「だから、ほら。もう外にたくさんいるよ──お巡りさん」


「「!?」」


 その言葉に、男と隆臣が同時に外を見つめた。だが、そこは変わらず薄暗いままで──


「ぐわッッ!!?」

「へ?」


 するとその直後、男が大きく声をあげて、隆臣はビクリと肩を弾ませた。


 何が起こったのか?


 再び男を見れば、そばに放り出されていたデッキブラシを手に取り、神木が男の膝裏を思いっきり殴打していた。


 体勢を崩した男は、まるで氷の上を滑るように無様に転がり、そして


「橘!! 急げ!!」


 神木の叫び声と同時に、ハッと我に返った隆臣は、慌ててトイレの外へと走り出す。


「ひっ、ぁ──!?」

「!?」

 

 だが、その瞬間、出口まであと少しというところで、飛鳥がズルリと体勢を崩した。


 まるで、引きずり込まれるように、床の上に倒れ込んだ飛鳥をみれば、その足には、男の手がガッシリと絡み付いていた。


「逃がすか……ッ」

「……ッ」


 痛いくらいに足首を掴んで離さない男に、飛鳥が今までにないくらいの焦りの表情を浮かべ、その姿を見て、隆臣はただ一人トイレの出口で立ち尽くす。


「……神……木?」


 声が震えた。どうすればいいか分からず、ただただ、その光景を見つめることしかできなかった。


 すると


「……げろ……ッ」


「え?」


「いいから、走れェェ──!!!!」


「!?」


 逃げろ──その声が脳内に駆け巡ぐると、隆臣の身体は言われるまま、その場から走り出していた。


 恐怖が先行して、出入口にあったバケツを蹴飛ばしながら、トイレが無我夢中で飛び出す。


 外に出れば、そこはいつの間にか、真っ黒に染まっていて、酷い震えと吐き気が襲ってきた。


「っ、はぁ……はッ!」


 ──あれ?

 俺、なんで逃げてんの?


 まるで、自分の体が、自分のものでないように感じた。


 とまれ。止まって。戻らないと──!


 頭の中では、必死にそう叫ぶのに、ひどい恐怖感からか「とにかく逃げろ!」と、脳から発せられた信号がそれしかないかのように、震えた体は、足は、ただあの男から逃げるようにとうったえかけてくる。


「っ、……はぁ、ぅ……っ!」


 息が苦しい。目熱くなる。


 恐怖なのか、罪悪感なのか、なんだかわからない涙がとめどなく溢れると、それは頬を伝い、顔がぐしゃぐしゃになった。


(うッ……なんで……俺……っ)


 逃げたくないのに、戻らなきゃいけないに、身体は全く言うことを聞かない。


(ッ、このまま、俺が逃げたら……アイツは)


 ──どうなるんだ?


《スキができたら、お前だけでも逃げろ──》


 すると、その瞬間、先程の飛鳥の言葉がよぎって、隆臣の目には、またボロボロと涙があふれてきた。


「ぅ……ひく……神木……ご……め……っ」


 ただ走りながら、隆臣は嗚咽混じりに呟いた。


 ダメだ。

 助けられない。


 溢れ出た涙は止まることを知らず、隆臣は、その涙を服の袖で必死に拭うと


「だ………か……ッ」


 小さく小さく、声を発し始めた。


「だれ……か……ぁ……ッ」


 震える声で、必至に叫び、誰かと声を発した。


 ダメだと思った。

 助けられないと思った。


 こんなに弱い自分一人だけじゃ──


「誰か……っ」


 お願い。誰でもいい。

 誰でもいいから……!


 俺しか、知らないんだ。

 俺しか、伝えられないんだ!


 神木が───あそこにいること……ッ



「っ、はぁ……ぅ、ッ」


 暗くなったせいか、今日に限って誰ともすれ違わなかった。頭の中では何度とさけぶのに、声も思うようにでなかった。


 息が切れた。

 

 足は未だに震えていて、気持ち悪さから、ひどい吐き気も襲ってきて、本当なら、もうすでに膝から崩れ落ちているころかもしれない。


 それでも


「誰……かぁッ……!」


 必死に、涙を流しながら


「─────ッ誰か、たすけてぇぇぇぇ──ッ!!!」


 ただひたすら隆臣は助けを求め続けた。



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