第46話 転校生と黄昏時の悪魔⑭ ~抵抗~

 

 ドン──ッ‼


 男に胸ぐらを掴まれると、飛鳥の体はそのままトイレのドアに叩きつけられた。


 床に座り込み、押さえつけられるように捕らえられた体に逃げ場などはなく 、背中に響いたその衝撃で、飛鳥は小さく声を漏らす。


「ぅ……ッ」


「君は本当にいい子だね。私はとても嬉しいよ」


 頭上から聞こえた声に、うっすらと目を開くと、男はこちらを見下ろしながら、どこか妖しい笑みを浮べていた。


「こんなに、綺麗な子が手に入るなんて」


「っ……華の、ぬぃぐるみ……わざと、隠したの?」


「おや、気づいていたのかい。そうだよ。君を見ていたら、とてもイイお兄ちゃんだったからね。ぬいぐるみがなくなれば、妹のために一人で探しにくると思ったんだ」


「っ、い……ッ!」


 胸ぐらを押さえ込む力が更に強まると、息苦しさも更に増した気がした。


 それに加えて、まさか昼間遊んでいたときから、この男に目をつけられていたのかと思うと、背筋がゾッと震えて、家から出たことを深く後悔する。


「私は、美しいものが大好きでね。絵画に美術品、今まで欲しいものはなんでも手にいれてきたんだ。正直、子供なんて汚いだけでなんの興味もなかったんだがね。君を見ていたら、ついつい気が変わってしまってね。に加えてみたくなったんだよ」


「ッ……悪魔」


 グッ──


「ッ……んッ!」


 胸ぐらを掴んでいた手が、そのまま首へと回された。太い指が首筋に触れると、それは喉を撫で血管を探しあてる。


「あはは、悪魔か。酷いことを言うねぇ。大丈夫、オジサンは優しいから、殺したりはしないよ。気道は塞がずに頸動脈だけを圧迫して"酸欠"にするだけさ。少し気を失ってもらわないと、君は頭が良さそうだからね」


「ッ……ん…、やだッ」


 触れた手に、ぞわりと肌が泡立ち、男の手を引き剥がそうと、足元をばたつかせた。


 だが、そんなわずかながらの抵抗で、男の力が緩むはずもなく、首筋に食い込む指は飛鳥の意識を奪うべく容赦なく絡みついてくる。


「は、ぁ……んッ」


「もう、諦めなさい。どうせ明日には海外さ。いなくなったところで、誰も見つけられるはずもない。君はどの国に住みたいかな? 良い子にしていたら、綺麗な服を着せて、欲しいものもは、なんでも買ってあげよう。今日からは、私がになるんだ。たくさんたくさん、可愛がってあがるからね」


「……ッ」


 酷くうっとりと、恍惚の表情をうかべた男に、飛鳥は、ただただ蒼白する。


(何、言ってんの……この人……っ)


 言葉の意味が分からなかった。

 いや、理解したくなかった。


 海外? 家族?


「っ、ひ……ッ!」


 すると、首にかけた手はそのままに、男のもう片方の手が、飛鳥の髪や頬に触れ始めた。


 太く角張った指先が、何度も何度も肌に触れては輪郭をなぞり、その感触に、本能的に涙が溢れそうになると、男を睨み付けていたその視界が、微かに滲み始める。


「あぁ、そういう表情も実にいいね。君の将来が、ますます楽しみだ」


「……っ」


 ───気持ち悪い。


 このまま、つれていかれたら、されるんだろう。

 男の放つ言葉が、その先に何が待つのかを暗示じさせて、恐ろしく身が震えた。


 だけど、目の前には、真っ暗な絶望が転がっていて、笑みをうかべる男の、顔が、声が、少しずつ遠いて、全身の力がゆっくりと抜けていく。


「は、ぁ……っ、ッ」


 すると、男を引きはがそうと、必死に掴んでいた手の力がぬけはじめた。


 絶望の色は、更に増して、意識を失ったら終わりだと、そうわかっているはずなのに、浅くなった呼吸が、じわじわとその思考を奪っていく。


「さぁ、そろそろ楽になりなさい」

「ぁ……や、ぁ……っ」


 まるで、品定めをするように頭上から囁きかける男の声が不快で仕方ない。


 それに加えて、次、目を覚ましたら、自分はどうなっているのだろう。


 そう考えたら、体が震えて、瞳に溜まった涙が、今にも溢れだしそうになった。


 ──怖い

 ──いやだ。行きたくない。


 だが、そんな飛鳥の思いを裏切るように、その意識は、次第に薄れていく。


 必死で掴んでいたその手が、だらりと力をなくし男の腕から離れると、それを見た男が、喉の奥で「ククッ」と笑った気がした。


 もう──限界だった。


 そして、男の含むような笑みが見えた瞬間、それと同時に思い出したのは、家で待つ家族の姿だった。


(もう……っ)


 もう、会えないのかな?


 そう思った瞬間、飛鳥の青い瞳には、今にも溢れ出しそうなほど涙が溜まっていく。


(お、父さん……華…れん……い、やだ……っ、だ…れか…)


 ──誰か、助けて。


 朦朧とする意識の中で、必死に助けを求めた。

 だが、どんなに叫ぼうと、その声が音になることはなく


 何かを語りかけてくる、その男の声ですら、もう、よく聞き取れなくなっていた。


 抵抗する力はつき、出来るのは意識の遠くの方で、来るか分からない誰かに、ただすがるだけ。


 そして、それすらも 消え行きそうになると、飛鳥は、再び家族のことを思い出し、ゆっくりとその瞳を閉じる。


(ごめん……っ)


 ────ごめん、ごめん。


 すぐに、戻ってくるっていったのに


 大丈夫だからっていったのに


 俺、もぅ──────……



 冷たくなった頬に一筋の涙が伝うと、それは冷たい床に、静かにそっと流れ落ちた。




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