第163話 あかりとミサ


 エレナとは違うその声に、あかりは目を見開いた。澄んだ湖のような凛とした声。だけど、どこか威圧的な声。


 それは、あの日、エレナの手を引いていた──


「ミサ……さん……?」


『はい。何度かエレナにメッセージを送ってくださったのに、なんの返事もできず、ごめんなさいね』


「あ、いえ……こちらこそ、何度もすみません。あの、エレナちゃんは……」


『元気にしていますよ。毎日学校にも通っていますし、モデルの仕事も頑張ってます』


「そう……ですか」


 その言葉を聞いて、あかりはホッと胸を撫で下ろした。


 元気に学校に通っている。ならば、本当にモデルの仕事が忙しかっただけなのかもしれない。


「あの、わざわざ連絡して下さってありがとうございました。元気だと聞いて、安心しました」


『いいえ、それより、あかりさん。エレナはあなたに、酷くみたいね?』


「え?」


 決して攻撃的な言葉ではないはずなのに、その言葉には、どことなく棘を感じた。


『エレナがうちでよく、あかりさんの話をしているんです。あなたが話してくれた本の内容が面白かったとか、それはもう楽しそうに』


「…………」


『でもね、うちのエレナが、今まで私のいい付けを破るなんてことなかったの。それなのに、私に内緒で公園で遊んだりして……これって、やっぱり』


「…………」


の影響かしら?』


「……っ」


 耳をつくような言葉に、スマホを持つ手が微かに震え始めた。


 底知れない圧迫感。


 それはまるで、息をするのすら阻まれるくらいに


『あの子に友達なんて必要ないの。あなたのような、お友達もね? だから、これ以上エレナに付き纏うのは、やめてくださいさらない?』


「……っ」


 ミサが電話をかけてきた意図を感じ取って、体中が、異様な緊張感に蝕まれた。


 これは「娘に近づくな」という、明らかな警告だ。


 だが、身が竦む思いをしながらも、あかりは、その恐怖を必死に跳ね除ける。


 友達なんて必要ない?

 そんな訳ない。


 エレナちゃんは、友達が欲しいと言っていた。


「どうして、ですか……っ」


『……』


「どうして、エレナちゃんから、周りの人間を遠ざけようとするんですか? エレナちゃんだって、一人の人間です。友達だってほしいし、自由に夢だってみたいはずです! それなのに……あの、一度でいいので、エレナちゃんと、ちゃんと話をしてみてくれませんか? エレナちゃん、本当は……っ」


『あかりさん』


「……!」


、しましたからね?』


「ッ…………」


 神経は、ビリビリと緊張していた。


 自分の一言で、エレナがまた怒られる可能性だってある。そう思うと、二の句が告げなくなる。


『それじゃ、もうかけてこないでください。エレナにも、そう伝えておきますから』


「ッ……待って、待ってください!」


 なんとか話を聞いてもらおうと、必至になって食い下がる。だが……


 ツーツー……


 その後、返答はなく、あかりの耳には無機質な音だけが残った。


「ッ……ま、って……っ」


 今にも溢れそうな涙を必死に堪えて、立ち尽くす、あかりのその表情は、今にも崩れ落ちそうなほど、酷く青ざめていた。




 ◇



 ◇



 ◇



 その頃、飛鳥は、一人あかりの家に向かう道中で、先日、父が帰ってきた時のことを思い出していた。


 電話をしたその日に、海外から帰宅した侑斗。そして、それは、みんなが、寝静まったあとのことだった。



 ◆◆◆



『まさか、本当に帰ってくるなんて思わなかった、どこまで親バカなんだか?』


『あはは、まー顔を見にきたのは確かだけどな。でも、実はお前にもあって』


『え? 渡したいもの?』


 静まり返る部屋の中、スタンドライトの明かりだけが灯る室内で、父が静かに話し始めた。


『あぁ……でも、その前に、ちゃんと話しておこうと思ってな。


『……っ』


 瞬間、飛鳥は表情をくもらせる。


 聞きたくないような、聞いておかなくてはいけないような、そんな複雑な感情が入り交じって、思わず言葉を閉ざした。


 でも、きっと父が話さない限り、自分からは聞くことはないような気もして、飛鳥はただ黙ったまま、その話に耳を傾けることにした。


『…………』


『辛くなったら、言えよ』


『大丈夫だよ』


 父の言葉に、飛鳥は平静を装いそう返すと、その後、父は


『昔、お前がモデルをさせられていたのも、怪我をして部屋に閉じ込められたのも、きっと、ミサが、昔と思う』


『え?』


 その言葉に、飛鳥は耳を疑った。


『モデル……?』


『あぁ、いきなりこんな話しても素直に飲み込めないだろうけど。でも、本当なんだ。俺と出会う前の話だけど、ミサは学生時代、モデルをしていて、身体に怪我を負ってから、モデルの仕事ができなくなたらしい。お前は小さかったから、覚えてないかもしれないけど……背中と腕に大きな傷がある』


『…………』


 背中に傷?

 モデルを……してた?



 ◆


 ◆


 ◆



(父さんは、あー言ってたけど……)


 不意に思い出した記憶に嫌悪して、歩く速度が次第に速くなる。


 モデルをしていたなんて、全く知らなかった。


 だけど、その言葉と同時に、幼い頃の記憶を朧気に思い出した。


 あれは、いつだったか?


 父が家に帰って来なくなったあと、でもまだ、あの人が優しかったころ、絵本を読みながら、二人で話をしていた。


 ◆


『おかーさん、これは~』


 俺の問いかけに、あの人は絵本に書かれたイラストを指しながら答える。


『これはお医者さん、これはお巡りさん、こっちは、お花屋さん!』


『いっぱい~』


『そうね~いっぱいあるわね』


 あの頃は、まだ優しかった気がする。だけど


『ねぇ、飛鳥は大きくなったら、何になりたいの?』


『う~ん、まだわかんなーい。あ、おかあさんは?』


『え?』


『おかあさんは、なにになりたいの?』


『私は……………』



 ──モデルに、なりたかったかな?




 ◆



 ノイズ音ともに、蘇った記憶。

 幼い日の無邪気な自分と、まだ優しかった頃の、母の姿。


 だけど、もうあんな関係、跡形もなく崩れ去った。


(そうだ。あの後から、あの人は段々おかしくなって……)


 幼い頃の記憶をだぐりよせる。


 嫌な記憶。

 思い出したくない記憶。


 でも、向き合わなくてはならない記憶。



(モデルに……なりたかった?)


 だから、俺にモデルなんてさせてたの?


 だから、頬に怪我しただけで閉じ込めたの?


 幼稚園まで辞めさせて


 外にもださず


 ずっとずっと、あの部屋の中で──



(それって……自分の"叶えられなかった夢"を、息子に叶えさせようとしてたってこと?)


 下らない理由に呆れ返る。


 だけど、もし本当にそうだったとしたら、今モデルをやっている


 エレナあの子は───……




「!」


 だが、その瞬間、路地を曲がったその先で、目的の人物の後姿が見えた。


 住宅街の片隅で、一人立ち尽くしている"あかり"の姿。


 飛鳥は、先程考えていたことを中断すると、背後から、呼びかける。


「あかり!」


 だが、あかりは、立ち尽くしたまま、その声に反応することはなく……


(あぁ、そっか……)


 ふと片耳が不自由だったことを思いだして、飛鳥は、あかりの側まで歩み寄ると、そっと、その肩に手を触れた。


「あかり」

「……ッ」


 瞬間、身体を震わせながら、あかりが振り向いた。


 だが、そのあかりの姿をみて、飛鳥は目を見開く。


 その表情は、酷く怯えたような顔をしていた。


 今にも泣き出しそうなほど、目が赤らんでいて、自分を見上げる瞳が、まるで助けを求めているように見えて──


「……あかり?」


 どうしたんだ?

 

 どうして、こんなに、泣きそうな顔をしているんだろう……?



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