第126話 偏愛と崩壊のカタルシス⑫ ~信頼~
「ふぅ、こんなもんかなー」
アメリカ ロサンゼルス──
海外赴任中である侑斗は、社宅として借りているワンルームの掃除を終えると、視線を流し時計を確認した。
日本とは16時間ほど時差がある、現在のアメリカの時刻は11時8分。
お昼前に差し掛かったのを目にし「そろそろ、昼飯でも作るか?」と、手にしたモップを片付け、キッチンで軽く手を洗うと、侑斗は冷蔵庫の中を確認する。
(昼から、買い出しいかなきゃな)
昼のメニューを考えながら、冷蔵庫の中が空になりはじめていることに気づくと、侑斗は誰もいない部屋で、ひとり呟いた。
今日は、仕事が休みだ。
だからこそ休みの日には、掃除に買い出しにと、何かと忙しかったりする。
──トゥルルルル!
すると、その瞬間。部屋のチェストの上にある固定電話が、突然音を立てた。
侑斗は、冷蔵庫をしめチェストの前まで移動すると、そのまま受話器をとる。
「Hello!」
明るく英語で返事をし、相手先の声に耳を傾ける。すると
『……父さん』
どうやら、電話をかけてきた相手は、息子の飛鳥だったようで、侑斗は久しぶりに聞く我が子の声に顔をほころばせると、いつものように日本語に戻し明るく声をかけた。
「あー、俺の可愛い可愛い飛鳥くん♪ 珍しいな~お前からかけてくるなんてー。もしかして、パパの声が聞きたくなっちゃ……」
──と、そこまで言って、侑斗はあることに気づく。
「──て、お前そっち今、夜中の3時とか4時だろ!? 丑三つ時まっただ中に、なにしてんの? どうしたの!? 眠れないのか!?」
こちらは昼前だが、日本は夜中。
侑斗は、そのことに気づくと、電話先で心配し声を上げる。
『…………』
だが、侑斗の問いかけに、飛鳥はなかなか応えようとはせず、いつもと違う息子の雰囲気に、妙な胸騒ぎを感じた侑斗は、神妙な面持ちで再度声をかける。
「飛鳥どうした? なにか、あったのか?」
日頃はあまり、子供たちからは、かけてこない。にも関わらず、あの飛鳥が、それもこんな夜中に、わざわざ電話をかけてきた。
なら、きっとなにか──
『父さんに……話したいことがあるんだけど……聞いて、くれる?』
電話先で小さく言葉を放った息子の声は、とてもとても弱々しい声だった。
「……どうした?」
侑斗は、そんなわが子を、一段と柔らかい口調で、声をかける。
すると、飛鳥は小さく息を飲んだあと
『父さんは……』
「……」
『父さんは、
「──え?」
瞬間、侑斗は自分の耳を疑った。
俺の……母親?
「それは………
受話器をきつく握りしめ、声を重くし応えた。
すると、飛鳥が躊躇い気味に「……うん」と、一言だけ声を発して
「……い、いや、俺は何も……
『あの人、今、俺たちと同じ街にいるよ』
「え?」
あえて明るく発した声を、飛鳥が遮る。
息子から発せられたその言葉に、表情を硬くした侑斗は、焦り、声を上げる。
「な、なんで、お前まさか……っ」
『いや、大丈夫。見かけた……だけだから』
侑斗が声を荒げると、飛鳥がまた言葉を返した。だが、電話ごしに聞こえたその声は、あまりにも沈痛な声色で、飛鳥が、辛そうに顔を歪めているのが、なんとなくだが、見えた気がした。
「……本当に、大丈夫だったのか?」
『……』
心配し声をかければ、その言葉に飛鳥が再び押し黙る。
すると──
『大丈夫じゃ……なかった……っ』
「ッ……」
唇を噛み締めながら呟いた息子の声に、あの時の古い記憶が蘇る。
ああ、この子は、まだ
こんなにも──
『でも……俺、もう逃げないよ』
「……え?」
『まだ、大丈夫ではないし、どうすればいいかは分からないし、時間はかかるかもしれないけど……ちゃんと────向き合うから』
不意に放たれた言葉に、侑斗は目を見開いた。
ずっと、ずっと避けてきた。
飛鳥が思い出さないように──
なぜなら、それは、飛鳥にとって「忘れたい過去」だったから。
でも、この子は、今それを、忘れずにちゃんと受け入れて、乗り越えようとしてる。
必死に、前に進もうとしている。
『父さん……』
すると、飛鳥がまた遠慮がちに声を発する。侑斗は、目を瞑り、その先の言葉にそっと耳を傾ける。
『もし……俺が、あの人の───』
だが、その先の言葉が発せられることはなく
『…………ごめん……なんでも、ない』
「…………」
飛鳥が、その言葉を飲み込むのを、侑斗は砂を噛みつぶすような思いで聞いていた。
飛鳥は、父親にすらあまり頼ろうとはしない。
一番、理解してあげられる立場にありながら
一番、助けてあげられる位置にいながら
俺は、飛鳥を救えなかった。
きっと、あの日──
──お前はもう、俺の子供じゃない──
あの言葉を口にした瞬間、俺は失ってしまったのだろう。
この人は裏切らない。
この人は自分を見放さないという
絶対的な「信頼」というものを──
一度失った「信頼」は、そう簡単には取り戻せるものではなくて
でも、それでも、長い長い時間をかけて、やっとの思いで取り戻してきた。
だけど──
それでも未だに
素直に頼ることすら躊躇させてしまうほど
俺が、幼い飛鳥に植え付けてしまった
あの「絶望」と「悲しみ」は
今もまだ、その心に残ってる。
でも、それでも───
「飛鳥……」
侑斗は、受話器を手にしたまま、空いた片方の手で、チェストの上に飾られた写真立てを手に取ると、その写真を見つめて、柔らかく笑みを浮かべた。
それは、華と蓮の高校入学を記念して、家族4人で撮った真新しい写真だった。
「俺、ほんとダメな父親で……間違った選択ばかりしてきて……お前のことたくさん、傷つけてきた」
それは、懺悔するような、だけど、とても優しく包むような声だった。
飛鳥は、そんな父の声に黙って耳をすませると…
「でも……俺はもう絶対に、お前たちの手を離したりしない」
『……』
「だから、飛鳥が前に進めるようになれるなら、俺にもその手伝いをさせてほしい。我慢しないでいい。わがまま言って、困らせて、泣いてわめいてもいい……何があっても俺はもう、お前を見捨てたりしない」
その言葉に、飛鳥は手にした受話器をきつく握りしめる。
「だから、悩んでいるなら、辛いことがあるなら、どんな些細なことでもいいから、いつでも連絡しておいで……俺は、この先何があっても、ずっとお前の"父親"で"家族"だから──」
その優しい、いつもと変わらぬ父の声。
飛鳥は、その声に、その言葉に、どこかほっとしたような笑みを浮かべると、続けて呆れたような声をあげる。
『はは……いいの? 夜中に電話して、安眠妨害しちゃうかもよ?』
「どんとこいよ! 超絶可愛い自慢の我が子たちのためなら、俺、寝なくても平気! あ。でも、コール音は長めにしてね~起きれなきゃ意味無いから」
『じゃあ、起きるまで、しぶとく鳴らしとかなきゃ♪』
受話器から、聞こえた息子の笑い声に、侑斗は再び笑みを漏らす。
すると、飛鳥がほんの少し間を開けたあと、またボソリと呟いた。
『それと俺、ちゃんと、わがまま言ってきたよ』
「え?」
『克服できたら、髪も切るから……俺のわがままに付き合わせて、ごめんね、父さん』
その言葉を聞いて、侑斗は飛鳥が中学の頃の古い記憶を思い出す。
◇◇◇
それは、飛鳥が中学2年の時。
朝食の準備をしていたら、突然ガラスが激しく割る音が響いて、侑斗が慌ててかけつけると、飛鳥が、洗面台の鏡を素手で叩き割っていた。
『飛鳥!? お前、なにして……っ』
日頃、暴力的な事は一切しない飛鳥の珍しい姿に、侑斗が慌てて駆け寄ると、飛鳥は自分の手から滴る血には目もくれず、まるで恐ろしいものをみたかのように、ひどく青ざめた顔をしていた。
その頃の飛鳥は、成長期に入り、ますますミサの面影を宿すようになってきていて、侑斗は割れた鏡をみて、鏡に映った自分に母親の姿を見たのだと察すると、震えながら荒く息をする飛鳥を、抱き寄せようと手を伸ばす。
だが──
『兄貴! なにしてんの?!』
『ちょっとお兄ちゃん、手、怪我してるよ?!』
手を差し出す前に、華と蓮がかけよってきて、侑斗はハッと我に返る。
飛鳥にとって、母親のことは絶対に二人に知られたくないことだった。
でも、こんな兄の姿を見たら、二人だってきっと──
『あぁ、ごめん……つまづいたら……つい、割っちゃった』
『いや、ついってレベルじゃないよ!!』
『どんな豪快なつまづき方したんだよ!?』
『あはは……』
華と蓮に気取られないようにと、冷や汗をかきながらも、必死に笑顔を作るその飛鳥の姿に、侑斗は酷く胸を締め付けられた。
そうまでしても、ミサのことを、この二人には、知られたくないのだと、深く深く実感した。
そして、それから飛鳥は、まともに鏡を見なくなった。
中性的で美しい母親似のこの容姿が、ここまで飛鳥を苦しめるなんて、考えもしなかった。
だけど、それから、暫くたったころ──
『飛鳥、髪伸びたな。まだ、切らないのか?』
『……うん。伸ばしてみようと思って』
飛鳥が髪を伸ばし始めた。
伸ばしてしまうと、更に母親に似てしまうのに?
一瞬、疑問に思った。
だけど、飛鳥なりにそれを克服しようとしているのが伝わって来て
『そうか……』
侑斗は何も言わず、そのまま飛鳥を見守ることにした。
◇◇◇
「髪伸ばしてたの、お前のワガママだったのか?」
『まぁ……似てたでしょ、俺すごく……父さんだって、見てるの辛かったんじゃないかなって』
「確かに、似てたな。お前女の子みたいだったし、高校のころとか一番似てたかもな。正直、骨格どうなってんのーって、マジでおもったけどねー」
『……』
「でもな飛鳥。たとえどんなに姿が似ていても、飛鳥は飛鳥だ。だから、お前を見てミサを重ねることはなかったよ……俺にとっては、どんな姿でも、可愛い息子だからな」
『……あはは、あいかわらず、親バカ』
「誰がこんな親にしたんだかなー」
父の言葉に、飛鳥はクスクスと笑いだすと、いつものように言葉を返す。
すると、侑斗は一瞬だけ間を開けたあと、手にした写真を見つめ、再び語りかけたはじめた。
「華と蓮、最近頑張ってるんだってな? あの子たちも、もう子供じゃない。お前の後ろで、隠れて泣いてたあの子達も、今じゃ、お前を助けて支えてあげられるほど、しっかり成長した。だからな飛鳥……もう、あの子達の"母親"でいる必要はないんだよ」
『……』
「だから、これからは、普通のお兄ちゃんとして、一人の男として、自分の幸せを考えて、生きていけばいい。お前が、今まで頑張ってきた分、今度は俺達がお前に返す番だ。だから、どうか俺達を信じて、安心して前に進め。俺は──俺たちは、飛鳥の幸せを誰よりも願ってるよ」
父の言葉に、自然と目頭が熱くなる。
胸を突き上げてくる感情が、まるで暗雲を晴らすように、涙となって溢れてくると
『っ……ぅん……ありがとう……父さん』
飛鳥はただただそう言って、涙を流した。
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