第119話 偏愛と崩壊のカタルシス⑤ ~限界~
父と母が離婚してから、母は専業主婦をやめて仕事を始めた。
まぁ、仕事と言っても、在宅の仕事をいくつかかけ持っていたようで、俺は、その後もずっと部屋からだしてもらえなかった。
ただ、仕事をする時間が増えた分、母と一緒にいる時間は、前よりも減った。
それでも、一人部屋でやることは全て決められていて、ドリルや字の練習など、宿題のようなものを毎日出された。
だけど、そんなものも、慣れてしまえば、すぐに終わってしまい、そのあとは、ずっとなにをするわけでもなく、窓際に座って外ばかり眺めていた。
一階の子供部屋からみる景色は、いつも代わり映えのしない景色だった。
もう見飽きた光景。
だけど、それでも窓の外には、青く綺麗な空が広がっていて、2月中旬のその日の空は、羨ましいくらい澄んで見えた。
まだ、外は寒いのだろうか?
そう思って、窓ガラスにふれる。
「冷たい……」
すると、それはひやりと肌に馴染んだ。
部屋に閉じこめられたまま、ただ呆然と、そんな毎日がすぎていった。
生活を彩るのは、やりたくもないモデルの仕事だけ。
(オレ、なにに……笑ってるんだろ……)
家の中では、もう長く笑っていなかった。
"笑う"という感情が、わからなくなっていた。
両親が離婚して、笑える状況じゃまったくないのに、仕事の時はいつも笑顔でいなくてはならなくて
なんだか自分が、二人いるみたいだった。
もう一人の自分が、叫ぶ。
『もう、疲れたよね?』
そう言って、笑いかける。
──疲れた。
考えるのにも、無理して笑うのにも、何もかも疲れた。
目を閉じれば、心の中は、つねに暗雲がたちこめていた。
この世に「自分」を愛してくれる人なんて、どこにもいない。
まるで暗闇の中に
たった一人取り残されているような
そんな、果てしない
──孤独感。
そして、それは
精神を蝕むように
俺の心を、体を
弱わらせていった──
「パパ! ママ! はやくいこーよ!」
ぐったりと窓辺に持たれていると、外から明るい声が聞こえた。
「ちょっと待ちなさい」
「慌てると転んじゃうわよ?」
閉じていた瞳をうっすら開くと、窓の外を歩く、親子が目に入った。
父親と母親と一緒に手を繋いで歩く男の子の姿。
それをみたら、なんだか急に
──涙がでた。
羨ましいと、思った。
手をつないで一緒に歩く。
ただ、それだけのことが
自分には叶えることができなかった、その姿が
眩しくて眩しくて
仕方なかった。
温かい家族に憧れた。
自分を必要としてくれる
決して壊れることのない家族を夢見た。
何も望まない。
ただ普通に笑える
──日常が欲しかった。
「……もう……いい、かな?」
瞬間、なにかが弾けた──
もう、どうなってもいい。
そう感じて、俺は窓をあけると、レッスン用に使っている室内シューズをはいて、そこから飛び降りた。
「痛……ッ!」
少し高さがあって、着地した瞬間、膝と手の平を擦りむいて、だけど
(あ……また、怒られる……っ)
この後に及んで、まだそんなことを考えている自分が恐ろしく滑稽だった。
だけど、もう怒られたくない。
嫌だ。逃げたい。
もう、こんなところにいたくない。
「────っ」
一度だけ家を見上げて、その後、俺は立ち上がると、意を決して家から逃げ出した。
このあとのことは
何も考えてなかった。
ただ、このままは嫌だと
そう思っただけだった。
◆
◆
◆
「はっ、はぁ……っ」
しばらく走り続けたあと、気がついたら知らない場所にいた。
上着を着ることなく出てきたけど、走ったせいか寒さは感じなかった。
(どこだろう…ここ?)
「ぼうや?どうしたんだい?」
「っ……!」
瞬間、声をかけられて、体が震えた。
見知らぬ土地にきて、急に不安なのに、わざわざ声をかけてくれた優しいおじさんですら、その時は、ひどく恐ろしいものに見えた。
母が、毎日のように俺に刷り込んだ、あの言葉が何度と脳内を駆け巡る。
『外の世界は、恐ろしいもので溢れてるの』
「──ッ!」
俺は、とっさにおじさんの手を振り払うと、そこから逃げて、近くにあったコンビニの中に入った。
「いらっしゃいませー」
店員の声が響けば、そこでやっと、母から逃げられたのだと安堵した。
だけど、息も切れ切れに走ってきたせいか、ひどく喉が乾いていて、俺はフラフラとコンビニの中を歩くと、ふと目についたペットボトルの水を手にとった。
だけど──
(あ……お金、持ってない)
思考が、少し麻痺していた。
(どうしよう……)
持っていっても、いいかな?
──なんてバカなことを考えて、でも出来なくて体が硬直する。
「ねぇ……!」
「ッ!?」
すると、また、誰かに声をかけられた。
反射的に体が震え上がり、手にしたペットボトルが手から滑り落ちる。
すると、それはコロコロとコンビニの床を転がって、声をかけてきた人の足元で止まった。
「なに、やってんの?」
「……ッ」
自分のしようとしたことに、とてつもない恐怖を感じた。
あ、どうしよう、怒られる。
俺は、その人から逃げたい一心で、コンビニから飛び出した。
どうしよう。
どうしよう。どうしよう……!
お店のものを、勝手に持っていこうとした自分に、体が震えた。
警察に捕まるかも?
お母さんにバレたら、どうしよう。
そんなことを考えて、ひたすら走り続けて、次第に力尽きる。
「はぁ……、はぁ…は…ッ」
もともと、あまり食べていなかったのもあってか、体力にも限界が来ていた。
走り疲れて、ふらふらとガードレールに手をつくと、俺は、そのままその場に座り込んだ。
「ぅ……っ、うぅ」
なに、やってるんだろう。
すると、その瞬間、また涙が溢れてきて、視界が鉛色に滲み始めた。
すぐ横の道路には、地響く音をたてながら車やトラックが、たくさん走行していた。
色々なものが
もう限界だった───
「……っ、ぅ、もぅ……ッ」
もう、嫌だ。
嫌だ。いやだ。
こんな世界、もう────
「ねぇ──」
「!」
だけど、その時
「これ、いらないの?」
その人は、俺の前に現れた。
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