第110話 忘れたい記憶と自分の心


「お前、さっきの女の人のこと……なにか、知ってる?」


 シンと静まり返った部屋の中。俺は心配そうにこちらを見つめてくる、あかりに質問を投げかけた。


 さっきの女の人とは、俺の母親のことだ。


 意を決して言葉と放つと、あかりは一瞬口をつぐんだあと……


「あの人は、紺野ミサさんと言って……エレナちゃんのです」


「………」


 ああ、やっぱり。

 確信して、エレナを思い浮かべた。


 "紺野"は確か、あの人の旧姓だ。どおりで髪の色がにてるわけだ。


 あの二人が親子だとするなら、あの子は


 エレナは多分、俺の


 ───妹だ。




「……っ」


 あの二人の姿を思い浮かべた瞬間、また体が微かに震え始めた。


 あの時のエレナはまるで、昔の自分を見ているようだった。


 幼い頃を思い出して、再び乱れ始めた呼吸を整えようと、キュッと目を閉じる。


 しばらくして、うつむいていた視線を上げれば、あかりが心配そうに俺をみつめていた。


 あかりは、どう思ったのだろう。


 こんな、俺をみて……




「ッ──これ!?」

「え?」


 だが、その瞬間、俺はあかりの腕に赤く跡がついてるのを見つけて、慌ててその手をとった。


 きっと、俺がつけたのだろう。その腕には、赤くアザが残っていた。


「もしかして、これ、俺が……っ」


「あ……大丈夫ですよ、このくらい。一晩したら消えちゃいますから」


「だけど……っ」


 突然、腕を取られ少し驚いたあかりは、その後優しく笑って平気だと返してきた。


 女の子の腕を手加減なく握りしめていたのだと気づいて、思わず血の気が引いた。


 こんなになるまで、俺はあかりの腕を掴んでいたのか?


 痛かったはずだ、きっと……なのに、振りほどくこともせず、ずっと──



「っ……ごめん」


 苦渋の表情を浮かべて謝れば、あかりは一瞬だけ言葉をつぐんだ後


「神木さんて……優しい人ですね?」

「……え?」


 そう言って、俺を見つめ返してきた。


「ぁ、その……神木さんて、やっぱり優しい人だなって……自転車から守ってくれたり、おばあちゃんからの荷物わざわざ届けてくれたり……今だって、自分のことで余裕なんて全くなさそうなのに、私の腕のことまで気にかけてくれて……」


 少し俯きぎみに呟いた、あかりの声。


 その声をききながら、俺は掴んでいた手を放すと、あかりは、とても悲しそうな顔をして、また俺を見つめ返してきた。


「神木さん、少し無理をしていませんか?」


「……」


「周りに心配をかけたくないからと、誰にも話せず一人で、悩みを抱え込んでいたりはしませんか? もし、思い悩んでいることがあるなら……っ」


 何かを思い出したのか、俺を見つめるその瞳は、とても不安そうな色をしていた。


 だけど……


「はは……なにいってんの、俺は別に……悩みなんて」


 だけど、俺はそんなあかりに、また笑顔を向け、笑いながら返事を返した。


 人に話せる悩みなんてない。


 話したところで、解決できる話ではなくて、これは、俺自身の問題でしかなくて


 だから──


「じゃぁ、どうしてするんですか?」


「……」


 ──そんな顔?

 あれ? 俺、今笑ってるよね?


「神木さん今、


「……っ」


 その瞬間、俺は目を見開いた。


 あぁ、まただ。あかりは、いつもこうやって俺の心を見透かしてくる。


 触れられたくない所ばかり触れてきて、強引に自分の心と向き合わなくちゃいけなくなる。


 別に、話せなかったわけじゃない。


 話そうと思えば、話すタイミングなんていくらでもあった。


 だけど────



「ッ話したくないんだよ、俺は!!」


 思わずあかりを睨み付けて、言葉をぶつけた。


 すると、あかりは少しだけ驚いた顔をして、そのあと、また静かに俺を見つめ返してきた。


「別に……心配かけたくないからとか、そんな理由じゃないんだよ……っ!」


 そんなことじゃない。

 俺が、話さないのは──


「忘れたいんだよッ!! 早く忘れて、楽になりたい、のに! 誰かに話したりしたら、また……っ」


 ──忘れたい。


 忘れたいから、誰にも話さなかった。

 話してこなかった。


 話したら、また思い出して、余計に忘れられなくなる。


「もう、思い出したくもない……っ」


 あんな昔のことに、いつまでも縛られて、この先も生きていくのかと思うと


 ──辛い。


 だからこそ、早く忘れたい。


 忘れたい、のに……っ



「忘れられましたか? それで……」


「っ…………」


 あかりの言葉が、心にスッと突き刺さるようだった。俺は、静かに首を横に振ると……


「忘れ、られない……どうしても……っ」


 不意に今までのことを思い出して、自分の手をぐっときつく握りしめた。


 克服しようと髪を伸ばしても

 思い出さないようにと、心に蓋をしても


 何度、問いかけられても、誰にも話さないようにしてきたのに


 どんなに足掻いても、どんなに忘れようとしても、忘れられなくて──


 どうしたら、忘れられるのか?


 もう、そんなことも



 ────わからない……っ



「なら、忘れる必要ありませんよ」

「え……?」


 だけど、そんな俺の斜め向かいから、あかりが再び言葉を放った。


 その言葉に、俺は思わず目を丸くする。


「忘れる必要……ない……?」


 何、言ってるんだ?


「お前、俺の話きいてなかったの?」


「いえ、ちゃんと聞いてますよ。無理に忘れようとするから苦しいんです。忘れたいなら"忘れたい"ではなく"忘れなくてもい"と自分の気持ちを切り替えて、その記憶、誰かに話してみてください」


「…………」


 言葉の意味がわからなかった。


 誰かに……話す?

 なんで?


「何言ってんの……だから、俺は話したくないって……っ」


「本当に、そうですか? 神木さんは覚えてないかもしれませんけど……さっきあなたは、私に『側にいて』と言ったんです」


「……」


「本当は、誰かに助けてほしいって思ってるんじゃないですか? 本心では……もう、


「…………」


 その瞬間、今朝の自分の言葉を思い出した。


『母さんなら、こんな俺に……なんて声かけた?』


 母の写真に向かって、問いかけた自分の言葉。


 それを思い出した瞬間。気付いたら



 ───頬に、涙が伝っていた。



 誰かに……助けてほしい?


 俺が?




「倒れる寸前までこないと、素直に頼ることもできませんか? 過去は消せませんし、忘れられない記憶はずっと残りますよ。心はサインを出しているのに、それに気づかないふりをして、一人で悩み続けるつもりなら、騙されたと思って私の話を聞いてください」


「ッ……」


 伝った涙に訳が分からなくなった。


 違う。話したくない。


 これは、"本心"のはずなのに……っ


 なんで───



「なんだよ、それッ、お前に俺の何が分かるの!?」


 自分の気持ちが分からなくなった。


 なんで、泣いているのか分からなくて、当たり散らすように、あかりに向けて声を荒げた。


 するとあかりは、ほんの少しだけ落とした視線を再び上げると、困ったように、小さな笑みを浮かべた。


「わかりますよ。私も……そうでしたから」


「……え?」


「私にもあるんです。忘れたくても忘れられなくて、苦しんだことが……」


 その瞳は、何だかとても悲しげない色をしていて、俺はその瞳から、目が離せなくなった。


「話せることから、少しずつでいいんです……誰かに話を聞いてもらって、たまったものを吐き出すだけで心は楽になります。そうすれば、どんなに辛い記憶も、いつかは和らいで"ただの忘れたかった記憶"になりますから……だから、どうか限界がくる前に、家族でも友人でも、信頼できる誰かに話してみてください……あなたの側にはいませんか? あなたの話を聞いてくれる人」


「……」


 話を聞いてくれる人?

 そう言われて、ふと思い浮かべた。


 華も、蓮も、父さんも、隆ちゃんも、話せば聞いてくれる気がした。


 でも──


「無理だよ、話せない……っ」


 絞り出すように発した自分のその言葉に、まるで逃げ道をふさがれたような感覚がした。


「誰かに話せとか、簡単に、言うなよ……っ」


 ずっと、ずっと気づいてた。


『お兄ちゃんのお母さんて、どんな人なの?』


 華と蓮が、俺の幼い頃のことを知りたがっているのは……でもそれを、いつも笑ってはぐらかしてきた。


「言えるわけない……っ、俺と"あの人"のことなんて……!」


 もし、俺の母親あの人の話をしたら、華と蓮はどう思うだろう?


 俺に対して、今まで通り接してくれるだろうか?


 もし、話して、今の関係が壊れてしまったら?


 もし、受け入れてくれなかったら?


 また、失うのかもしれない。


 そう考えたら、話せない。


 話す勇気が、ない。



「ッ……やっとここまで……幸せに……なれたのに──っ」



 自ら壊すなんて─────出来ない……っ






 ザ―……


 まるで、流れ落ちる涙に比例するように、雨脚が強まる気配がした。室内に響く雨の音に、心の中がさらにどんよりと重くなった。


 結局、俺は何も変われないまま、この先も、ずっとこの記憶を引きずって


 生きていかなきゃならないのかもしれない。


「……神木さん」


 だけど、そんな俺の手を取って、あかりは、また微笑みかけてきた。


「もし、大切な人たちだからこそ、話せないというなら……その時は、なんの接点もない他人の私が、いくらでも聞きますから」


「……」


「だから、そんな顔しないでください。あなたは決して、独りではありませんから」


 そういって、笑ったあかりの顔はとても優しくて……


 それをみて、不意に思い出した。


(あぁ……そうか、似てるのは華じゃない……)


 懐かしく感じるのも

 居心地がよいと感じるのも


 あかりは、あの人に……


 "母さん"に、似てるんだ───




「…………」


 すると、なんだか急に気が抜けた。


 体の力がすーって抜けていくと同時に、自然と笑いが込み上げてきた。


 いつからだろう。

 弱音を吐くのを恐れるようになったのは。


 強くありたいと思うばかりに、弱いところなんてみせられなくなって、弱みを晒すことは、自分は弱いと認めてしまうような気がして


 強くないからこそ、強がって

 頼らずに一人で解決しようとしていた。


 だけど、確かにあかりになら話せる気がした。


 弱い自分をさらけ出しても、めんどくさがらずに、幻滅せずに、嫌な顔一つせずに


 優しく笑って、話を聞いてくれる気がした。


 そう思ったら、逃げ場のない闇の中に、ほんの少しだけ



 光が見えたような気がした。






「っ、……あはは」


 気がついたら、俺は涙にながらに声を上げていて、頬に伝った涙のあとを拭いながら、あかりに微笑みかけていた。


「っ……お前、どんだけお人よしなの」


「そういう神木さんは、意外となんですね?」


「……え?」


「なんだか、大学で聞いていた話とは全く違うというか……優しいのに、とても意地悪だったり、怒ることもあれば、すごく子供っぽいところもあって、私にはどこにでもいる、普通のお兄さんにしかみえないなって」


「……普通」


「あ、外見は普通じゃないですよ。中身の話です!」


「いや、それ喜んでいいの!?」


「一応誉めてるつもりなんですが……でも、私はいいと思いますよ。いくら"完璧な王子様"でも、泣きたくなる時だってありますよね?」


「……っ」


 そう言って笑ったあかりに、俺の頬は赤くなる。


「ッ……もしかしてお前、俺のことバカにしてる?」


「いえいえ、まさか。むしろ、みんなが言う王子様みたいな完璧な神木さんより、ずっと人間的で素敵だと思いますよ。あ、タオル取ってきますから、少し待っててくださいね?」


 するとあかりは、立ち上がりタオルを取りに向かって、俺はあかりの後ろ姿を見つめながら、また、母さんのことを思い出した。


『飛鳥……』


 そう言って、いつも優しく名を読んでくれた母さんは、俺が悩んでいたら、いつも話を聞いてくれた。


 性格も、言葉遣いも全然違うのに、あかりの

 この優しい雰囲気は


 ホント、母さんに……よく似てる。



「誰かに……話す、か」


 正直、忘れたいと思うあまりに、忘れることしか考えられなくて、あかりに言われるまで、忘れなくていいだなんて考えもしなかった。


 もし、あかりの言う通り、この先もずっと、忘れられないのだとしたら、確かに、このままずっと


 逃げているわけには、いかない。



「……あかり」


「はい?」


 すると、いままで悩んできたことにスッと答えがふってきたような感じがして、俺は丁度タオルを手にして戻ってきた、あかりに小さく声をかけた。


「今はまだ、話せないけど……ちゃんと気持ちに整理がついたら、家族でも友人でも話してみるよ……だから、あの……今日は……ありがとう」


 目線を合わせず、俺が小さくそう呟くと、あかりは、きょとんと一瞬だけ驚いた顔をしたあと


「───はい」


 そう言って、また春の木漏れ日のようなふわりとした優しく笑みを見せてくれた。


 外には、まだ雨が降っていた。


 だけど、その心は



 不思議と、軽くなっている気がした。



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