第109話 産みの母と育ての母

 

 目を覚ますと、聞こえた声。


『……ぅ、ひっく……ッ』


 幼い頃の俺は、よく、泣きながら目覚ますことがあって、そんな俺をよく抱きしめてくれる人がいた。


『飛鳥……』


 その人は、華と蓮の母親で、俺にとっては、血の繋がりなんて全くない母親だったけど、それでも、母さんにだけは、素直に甘えられた。


『また、あの時の夢?』

『うん……ッ』


 母さんは、いつも穏やかな笑顔を浮かべていて、どんなに怖い夢を見ても、その顔を見れば不思議と安心した。


『大丈夫よ飛鳥……ずっと、側にいてあげるからね?』


『……っ……ぅん…ッ』



 ずっとそばに──


 いてくれると思っていた。


 ずっと一緒に──


 いられると思っていた。




 だけど、なんで──────









 ◇◇◇


「ん……っ」


 重い瞼をあければ、そこには、見慣れない天井があった。


(どこだ、ここ──?)


 まだ、夢をみてるのだろうか?


 不思議と懐かしい気配を感じて、思わず子供の頃を思い出した。


 うっすら開いた瞳に、影が揺らぐ。


 懐かしい人を感じた。


 ああ……やっぱり



 ──夢だ。




「母さ───」


「神木さん?」


「!?」


 瞬間、手を伸ばしそうになったその先にいたのは目的の人じゃなかった。


 俺は、一気に我に返ると、慌てて起き上がった。


「……ッ!」


 だが、急に起き上がったせいか、突如激しい目眩が襲ってきた。


 頭が重い。クラクラして、気分も最悪だ。


「……無理しないでください」


 額に手をあて、頭の痛みにたえていると、横から声がした。さっきの影は“あかり”だったのだと気づく。


「俺……なんで……ここ、どこ……?」


「ここは、私の家です。覚えてませんか?」


「え、と……」


 何が──あった?


 全く思い出せない。まるで、思い出すのを拒絶してるかなような……


「……思い出せないなら、無理に思い出さなくていいですよ。なにか温かいものを作ってきますから、今は、ゆっくり休んでいてください」


「………」


 そう言って笑うと、あかりは狭い1LDKの奥にあるキッチンに向かっていった。


 辺りを見回せば、女性らしい雰囲気の部屋が広がっていた。寝かされていたのは、あかりのベッドなのだろうか?


 倒れて、看病されていたのか?

 俺、なにしてるんだろ?



「ねぇ……」


 キッチンで、背をむけているあかりに声をかけた。だが、振り返らないあかりを見て、ふと片耳が不自由だったことを思い出す。


(あぁ、そうか……)


 水道の水の音のせいで、背後から声をかけても気づけないのだとわかると、俺はまた一人、ぼんやりとその思考を巡らせた。


 そういえば、雨が降りそうだと、あかりに支えられて、ふらつきながら、ここまで来たのを思い出した。


 だが、思い出そうとすると、なぜか頭がズキズキと傷む。


 大体、なんで倒れたんだ?

 確か、今日はあかりに本を渡しにここまで来て…


 それで────





「……………」


 ああ……


 思い、出した。


 俺は今日「あの人」を見かけたんだ。



 俺の──「母親」を




「……ッ」


 思い出した瞬間。背筋が凍りついた。


 わずかに震え出した手を必死に握りしめて

 意識を保つ。



『そのキレイな体に傷でもついたらどうするつもり…?』


 ──ダメだった。


 あの言葉を聞いたとたん、震えとめまいと吐き気が一気に襲ってきた。


 幼い頃の出来事が、走馬灯のように流れ込んできて、あんなにも容易く、あんなにも簡単に、必死に保っていたバランスが、一気に崩れ落ちた。


 どうすることも出来なかった。


 結局、俺は、克服なんてできてなかった。


 あの頃からずっと



 ──────変われないまま。





(情けない……それで俺は、あかりにすがり付いて……っ)


 本当に、なにしてるんだろう。

 深くため息をついて、目を閉じた。


 すると、キッチンから、ほのかにスープの優しい香りが、こちらの部屋まで流れ込んできた。


 どこか暖かいその雰囲気は、不思議と居心地がよくて、気が抜けたのか、安心したのか、急に睡魔が襲ってきた。


 だけど、俺がいつまでもこのベッドを使っていたら、あかりだって、よい気はしないだろう。


 そう思うと、少し重い体を動かして、ベッドから降りると、下に敷かれたカーペットの上に座り、ベッドを背持たれがわりにもたれ掛かった。


 窓の方をみれば、外には雨が降っていた。パラパラと降る雨が、窓ガラスに当たっては、流れ落ちて行った。


 どこか切なさを感じさせるその雨は、まるで自分の今の心を映し出すようで


 なんだか急に、涙が出そうになった。



「神木さん、もう大丈夫なんですか?」


 ベッドからおり、座り込んでいる俺を見て、あかりがキッチンから声をかけてきた。


「うん、もう大丈夫……」


「…………」


「ベッド使って、悪いね」


「あ、いえ……こちらこそ、こんなところしかなくて、逆に申し訳ないというか……お客様用の布団とかあれば、よかったんですけど……っ」


「いいよ、謝らなくて……ありがとう」


 申し訳なさそうに言うあかりの言葉に、無理に笑顔を作ってお礼を返すと、あかりは俺の斜め向かいに座り、そっとテーブルの上にスープを差し出してきた。


 そういえば、妙に手が冷たいし、寒気もする。


 すると俺は、呆然とテーブルに置かれたカップを見つめながら


「なにも……聞かないの?」

「…………」


 あかりに疑問をぶつけた。

 すると、あかりは


「神木さんはありますか? 聞いてほしいこと……」


 それは、話したいことがあるのなら、問いかけると言われているようだった。


 あんなことがあって、気にならないはずがない。


 だけど、あかりは、無理に聞き出そうとするわけでもなく、だからと言って突き放すわけでもなく、あくまでも、こちらの気持ちにゆだねようとしているようで……


 瞬間、喉まででかかって、話してしまいそうになった言葉を……必死に、飲み込んだ。


「ないよ……聞いてほしいことなんて…」


 話すつもりなんてない。


 話したところで……どうにもならなくて。


 だけど……



「あかり……」

「……はい」


 だけど、どうしても一つだけ確認して、おかなくちゃならないことがあった。


 知っておかなくてはいけないこと……



「お前、さっきの女の人のこと……なにか、知ってる?」

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