お兄ちゃんと家族旅行 ④
青年は、酒に酔っていた。
現在、24歳。
大学を卒業後、大手上場企業に就職し、早4ヶ月。
だが、職場の人間関係に疲れ、逃げるように、この旅館にやってきた。一人旅と言えば聞こえはいいが、ただ疲れただけだった。
もう、仕事なんてしたくない。
いっそ、辞めてしまいたい。
だが、次の仕事も決まってないし、辞めるに辞められず……
(はぁ~……明日から、また仕事かぁ)
二泊三日の一人旅。疲れた体を癒そうと、遠く離れた、この宿までやってきた。
美しい景色と、趣のある旅館。
料理は絶品で、まさに夢心地だった。
だが、二日目の昼までは良かったが、夜になると、
そう、この楽しい時間が終われば、また仕事が始まるのだ。
だからか、忘れよう忘れようとするあまり、必要以上に酒を飲んでしまった。
(あー……頭いてぇ……っ)
フラフラになりながらも、酔いを覚まさねばと、朝早くから大浴場にやってきた。
どうやら、誰もいないらしい。
その後、脱衣所に荷物を置けば、黙々と服に脱ぎ、浴場で体を洗う。そして、内風呂には目もくれず、そのまま露天風呂の方へ、やってきた。
空が白み始めてはいるが、まだ薄暗い。
青年は、湯に浸ると、深くため息を
(あー、できるなら、一生、ここにいるいたい……っ)
せっかくの露天風呂なのに、思考は鬱蒼としていた。
仕事、行きたくない。
仕事、行きたくない。
仕事、行きたくない。
仕事、行きたくない。
ただ、それだけが頭の中に駆け巡る。
だが、その瞬間、ピチャンと湯が跳ねる音がした。
(あれ? 誰かいるのか?)
広い露天風呂の中を見回す。
すると、ちょうど死角になっていた岩陰に、人影のようなものが見えた。
そして、そのシルエットを見た瞬間、青年は眼を
そこには、言葉では言い表せないほど、美しい女性がいた。
金色の髪をした、とても華奢で品のある人。
まるで、天女か、神の使いかと言いたくなるほどに、眩いほどに美しい人。
そのせいか、酔いなんて、一瞬で醒めた!!
(え!?何あれ、人!?)
ていうか、女の子!?
てことは、まさかここは──女湯!?!?
もはや、パニックだ!
酔っていたせいで、女湯に入ってしまったのか!?
青年は、身を隠しつつも、顔面蒼白する。
(ど、どどどど、どうしよう。俺、完全に変態だ! もし、あの子に見つかったら、俺の人生完全に終わる!)
いや、でも、ここで変態として捕まれば、明日、仕事に行かなくていいのか?
あー、だったら、それも悪くな──
いやいやいや、何考えてんだよ!
前科がつくなんて、親が悲しむだろ!
せっかく、いい企業に就職できたって喜んでたのに、手塩にかけた息子が、女湯に忍び込んで捕まったなんて、地獄絵図が目に浮かぶよ!!
(だ、大丈夫だよな? 気づかれてないよな? と、とにかく、あの子が出るまで身を潜めて…っ)
もし、気づかれているなら、
だが、彼は勘違いしているようだが、ここは、女湯ではなく、その美人……いや、飛鳥は当然のごとく気づいていた。
(人が入ってきたけど、静かな人だし、このまま日の出まで入っとこうかな?)
もう直、朝日が昇るだろうと、飛鳥は、さして気にせず入浴を続ける。
だが、青年の方は、まさか相手が男子だとは思わず、全く生きた心地がしなかった。
しかも、酔った状態で風呂に入ったからか、ちょっとクラクラしてきた。
(あ、あの子……いつまで入ってんだ? やっぱ、女の子って風呂長いんだな)
何度も言ってますが、彼は勘違いをしています。
しかも、一向に風呂から上がらない飛鳥のせいで、頭は、更にぐらんぐらんと揺れだしてきた。そして──
ドボン!!!
「……?」
瞬間、飛鳥の背後で水音が響いた。
何事かと、もう一人の客の方を見やれば、その青年は、頭から湯船に突っ込み、沈みかけていた。
◇
◇
◇
「大丈夫ですか。声が聞こえますか?」
それから、しばらくたち──
男性を助けた飛鳥は、意識があるかを確認していた。
顔を近づけ、男性に呼びかける。
すると、意識はあるようで、男性が微かに返事をする。
「う……すみま……せん」
(あ、良かった。意識はある)
救急車を呼ぶべきか迷ったが、意識があるなら、大丈夫かもしれない。
なにより、ひょろっとした体格の人でよかった。ガタイのいい人だったなら、飛鳥では運べなかっただろうし、露天風呂の湯を抜く必要があった。
「大丈夫ですか? 今、店の人を呼んで」
「ァァァァァァ!! すみません! すみません! すみません! ごめんなさい!!!」
「え?!」
すると、横になったまま、青年が、狂った様子で謝罪を始めた。それを見て、飛鳥はたじろぐ。
「あ、あの……っ」
「本当に、すみません……俺、酔ってて……別に、女湯を……覗こうとしたわけなくじゃないんです……でも、気づいたら、ここにいて……すみません、すみません……!」
「………」
なにかパニックになってるのは、わかった。
というか、これは、また女に間違えられてるパターンか??
「あの、ここは男湯ですよ」
「へ? おとこ……湯?」
その言葉に、青年は目を見開く。
(あれ? じゃぁ、なんで、この女の子は男湯にいるんだ?)
青年は、更にパニックになる。
男湯なら、自分は間違ってないし、警察に捕まることは無い。
だが、それはいいとして、なぜ美女が男湯に?
ボーッとする意識で、改めて、美女を見つめれば、宝石のように美しいマリンブルーの瞳が、心配そうにこちらを見つめているのに気づいた。
吸い込まれそうなくらい、穏やかで澄んだ瞳。
オマケに、朝日が昇ったからか、金の髪に、陽の光が反射する姿が、それはそれは美しく、滴る雫ですら、芸術品の一部のような錯覚をおぼえる。
だが、こんな優しそうな美女が、男湯だとしりながら忍び込む痴女なわけがない!
なら……
(あぁ、この温泉には、女神がいたのか……っ)
どうやら、あまりにも美しかったが故に、この世の生き物ではないと認識したらしい。
だが、それは決して恐ろしいものではなく、青年は、ホッとした瞬間、ボロボロと泣き始めた。
「うぇぇぇん、女神さぁぁん、俺、もう仕事いきたくないんですよぉ…っ」
「はい?」
いきなり、意味のわからない事を言われ、飛鳥は呆気に取られた。
(意識、大丈夫か? やっぱり救急車、呼んだほうが……)
だが、青年は休むことなく、弱音を吐き始め
「俺、行きたかった会社に入社できたんです……親も喜んでくれて……それなのに、1人だけ、どうしても苦手な上司がいて……その人と話すのが、もう嫌で嫌で仕方なくて……っ」
「…………」
何やら、始まってしまった人生相談。
だが、露天風呂であった赤の他人に、切々と語るほど、彼は悩んでいるのかもしれない。
「会社、勤めて長いんですか?」
「いや、まだ4ヶ月です……新卒で入って……初めての仕事で……っ」
「……そうなんですね」
それから、青年の弱音を一通り聞いた。
憧れの企業に就職はできたが、パワハラがひどい上司が一人いるらしい。そのせいで、心労が重なり失敗も増え、仕事にいきたくなくなっているそうだ。
(……難しい問題だなぁ)
はっきりいって、大学生で、働いた経験がない飛鳥には、不向きな相談だった。
こんな時、なんと声をかけるのがいいのか?
正直、辞めたいと言う人に、辞めれば?というのは簡単な話だ。でも……
「お兄さん。俺は、お兄さんの人生に責任なんて持てないから『辞めていい』だなんて、適当なことは言えないよ」
「え?」
「辛いなら、辞めるのも一つの手だよ。それは、まちがいじゃないけど、他人の言葉を鵜呑みにして決行したとしても、誰も、お兄さんの人生に責任はとってくれないよ。だから、俺は『辛ければ、辞めればいい』なんて、気軽には言えない」
「…………」
「でも、お兄さんが、すごく頑張ってるのは、分かりますよ」
「え?」
「頑張りすぎてるから、そんなに、辛いんだろうなって……人って、頑張ばりすぎると、苦しくなることがあるから……だから、いっぱい頑張ってきた証だよ。そんなに悩んで苦しんでるのは」
「……っ」
女神の言葉に、また涙があふれた。
なんて、優しい女神なんだ……!
ここまで、親身になってくれるなんて
「あ、ありがとう……俺、今の仕事、好きだし、給料もいいから……本当はやめたくないんだ」
「うん。その忌みしい上司1人のせいで、行きたかった会社を辞めるのは、もったいないよね」
「そうなんだよ! なんで、あんなやつのせいで、俺が辞めなきゃいけないんだ……!」
「うん、悔しいよね、それは。それに、お兄さんは、凄いね」
「え? すごい?」
「うん。だって、そんな上司の元で、4ヶ月も働いてる。俺なら、嫌いな人とは、一時間ですら一緒にいたくないなー。それなのに、4ヶ月も続けてきた、お兄さんは、凄いなって」
「っ……」
まさか、たった4ヶ月、勤めただけで、凄いと褒めてくれるなんて──
青年は、感極まって、飛鳥の手を掴むと
「そんなこと言ってくれたの、君だけだよ……! ありがとう……俺、もう少し頑張ってみる。でも、また、つらくなったら、この温泉に来てもいいかな……?」
「え? あ、うん……っ」
別に、こちらに確認を取らなくても、勝手に来ればいいのでは?
そんなことを思ったが、その後、男性は、また気を失ってしまい(酔って眠った)慌てた飛鳥が旅館の人を呼び、事なきを得たのだった。
◇
◇
◇
そして、それから、数週間後──
「飛鳥兄ぃ! 見て見て! 私たちが行った旅館が、ニュースになってるよ~」
神木家が温泉旅行に行ってから、しばらくたったある日。華の明るい声に誘われ、飛鳥がテレビを見やれば、そこには、先日、行った温泉旅館が映っていた。
「なんか、SNSでバズって、女神がいる旅館として、有名になってるんだって!」
「女神?」
「うん、兄貴も入ったでしょ、露天風呂。なんでも、あの露天風呂に、金髪の女神がでるらしくて、仕事で悩んでいた男性が、そこで女神に話を聞いてもらったら、めちゃくちゃ運が良くなったんだって」
「へー、そうなんだ」
「本当に、凄いんだよー。上司のパワハラで、仕事を辞めたいくらいなやんでたのに、なんと、その2週間後に、上司が転勤することになったんだって! だから、辞めなくて良かったーって、女神のおかげで頑張れたって、旅館の写真付きで感謝してるツイートがあって。それが、一気に拡散されて、今は、ご利益がある旅館として、予約殺到中なんだって!」
「兄貴は、女神みてないの? 朝、はいったんでしょ?」
「見てないよ」
これは、また神秘的な話だ。
まさか、あの旅館に、女神がいるなんて──
(あれ? 露天風呂に、パワハラ上司に、金髪の……女神?)
なんだか、既視感があって、飛鳥は、あの旅行の日のことを思い出した。
確か。朝の露天風呂で、仕事を辞めたいと悩んでいた男性の相談にのってあげたが……
(いや……まさかね?)
いくらなんでも、自分のことではないだろう。
飛鳥は、あっさりと思考を切り替えると
「華、蓮! お風呂湧いたから、入っといでー」
と、明るく妹弟に声をかけたのだった。
*あとがき*
https://kakuyomu.jp/works/16816927861981951061/episodes/16817330655646125836
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