第205話 限界と慟哭



 ずっとずっと、気になっていた。


 この子が今、どんな環境に置かれているのか──…


 エレナを抱き抱えたまま、飛鳥は悲しげに眉をひそめた。だが、その時


「神木さん!!」


「!?」


 と、突然、名前を呼ばれた。


 飛鳥は顔を上げれば、そこには、見知った顔の女が、こちらに向かって走って来るのが見えた。


「え、あかり?」


「神木さん! エレナちゃん、捕まえててください!!」


「え?──わッ!?」


 だが、あかりがそう言った瞬間、エレナが、飛鳥の手を振りほどいた。


 逃げていたのは、あかりからだったのか?


 自分の手元から離れたエレナを見て、飛鳥は再び手を伸ばす。


 何が起こっているのかは、分からなかった。


 だけど、今のあかりは、とても切実に訴えていて、飛鳥は、咄嗟にエレナ腕を掴むと、逃げようとする、その幼い体を引き止めた。


「離してッ!!」

「……っ」


 だが、その瞬間エレナが叫んで、掴んだ手の力が一瞬だけ緩む。


 涙目で訴える姿に、ふと罪悪感に苛まれた。


 だけど──ダメだと思った。


 今ここで、この子の手を、離してはいけないような……そんな


「ごめん」

「っ……」


 離さないと目で訴え、謝ることと、どうやら逃げられないことを悟ったのか、エレナは、急に大人しくなり、下を向いたまま動かなくなった。


 すると、そこに、追いついてきたあかりが、エレナの前に膝をつき、血相を変えて話し始めた。


「エレナちゃん! どうして、ここにいるの!? 今日は、オーディションがある日だって……っ」


 その言葉に、飛鳥は、ことの重大さを瞬時に察した。だが、逃げる気力を失くしたエレナは、何も言わず俯いたままで


「お母さんは? オーディション……いかなくていいの?」


「ぅ、うぅ……っ」


 尚もあかりが語りかければ、その瞬間、エレナがポロポロと涙を流し始めた。そして


「お姉ちゃん、どうしよう……わたし、笑えないの……オーディション受けなきゃいけないのに、笑い方……分からなく……なっちゃって……笑ってるのに…笑えてないって、みんな言ってて……どうしよう、どうしよう、どうしよう……っ」


「……っ」


 今にも倒れそうなくらい、顔を真っ青にして泣き出したエレナは、酷く震えていて、あかりは、衝動的に、その体を抱きしめた。


 優しく、強く、泣いているエレナを慰める。


 今、どうしなくてはいけないのか?

 エレナは、ちゃんとわかってる気がした。


 だけど、きっともう、身体が、心が、応えてくれないのだろう。


「どうしよう……どうしよ…っ、わたし、もぅ…無理だよ……もぅ、……モデル…できなぃ…っ」


 あかりの胸に顔を埋め、エレナは嗚咽混じりに呟いた。


 まるで、限界だと言うように、あかりにしがみつき、大粒の涙を流すエレナに、飛鳥とあかりは、酷くその胸を痛めた。


 こんなになるまで、この子は──…


 すると、あかりは悲しそうに目を細め


「エレナちゃん……やっぱり、お母さんに、ちゃんと話そう」


 そう告げれば、エレナは、不安げにあかりを見上げた。


「……っ、だめ…むり…怖いもん…っ」


「でも、このままじゃ、ずっと辛いままだよ。一人で言うのが無理なら、私が側にいてあげる。だから、エレナちゃんの今の気持ちを、ちゃんとお母さんに伝えて見よう」


「……っ、う…っ」


 泣き止まないエレナを、あかりは必死に慰めた。そして、そんな二人の姿を見て、飛鳥は幼い日の事を思い出していた。


(そういえば、俺も昔、同じようなこと言われたことがあったっけ……)


 あの日──限界が来て、家から逃げ出した時、自分も、ゆりさんに泣きながら話をした。


 ゆりさんは、優しく頭を撫でてくれて、ひたすら話を聞いてくれて、そして……


『このままずっと泣いてても何も始まらないよ。私がついててあげるから、ちゃんと言いたいこと、お父さんに伝えてごらん?』


 そう言って、今のあかりと同じように、俺の背中を押してくれた。


(うわ、なにこれ……)


 なんか、すっごいデジャブ感じる!!


 今のエレナとあかりの姿は、あの日の自分とゆりの姿そのものだった!


 しかも、言動まで似てる!


 だが、そう理解するも、飛鳥は、その後、何とも言えない表情で二人を見つめ、今の状況を改めて整理する。


(伝える──か)


 確かに、あの時、自分は"ゆりさん"がいたから、自分の気持ちを"父"に伝えられた。


 だけど、今回は


 どう考えても『相手』が、悪すぎる──



「エレナちゃん、とりあえず私の家にいこう。少し落ち着いてから、どうするか考えて」


「ダメ! お姉ちゃん、お母さんに言われたでしょ、もう私に付き纏うなって!! それに、もう遅いよ……きっと事務所から、お母さんに連絡いってると思うし、それにお母さん、お姉ちゃんの家も知ってるの……っ」


「え?」


「ごめんなさい。教えなさいって言われて……だから、もし、私がお姉ちゃんの家にいたりしたら……」


「…………」


 涙目で話すエレナを見つめながら、なぜエレナが、あかりから逃げていたのかを、飛鳥はなんとなく察した。


 つまり、あかりは今、あの人に、あまりよく思われていないのだろう。


 だが、そうだとしたら……


「ねぇ」


「……!」


 すると、ずっと静観していた飛鳥がやっと口を挟んだかと思えば


「じゃぁ……俺の家、来る?」


「え?」


 そう言われ、あかりとエレナは、同時に目を見開いた。


「え? でも……」


「大丈夫だよ。俺の家、今日は夕方まで誰もいないから。それに、俺も、エレナその子と少し、話したいことがあったから」


 そういうと、飛鳥は買い物を中断し、あかりとエレナを自宅に連れて行くことにした。




 ◇


 ◇


 ◇




「え? 中止!?」


 一方、自宅マンションでは、出かける直前の蓮に、いきなり航太から電話がかかってきた。


「中止って、なんで?」


『なんか照明の調子が悪いらしくて、危ないから、体育館閉鎖して点検するんだと』


「マジか」


『あぁ、とりあえず明日の部活がどうなるか、わかったら、また連絡するから』


「……わかった」


 その後、暫く雑談をかわすと、蓮は10分ほど話した後、電話を切った。


(部活休みか……一気に暇になったな)


「ただいまー」


 すると、その瞬間、玄関から華の声が聞こえて、蓮は自分の部屋からひょっこり顔を出す。


「あれ? 華どうした、忘れ物か?」


「うんん。実は今、葉月の叔母さんが妊娠中でね。急に陣痛はじまったから、葉月が手伝いにいくことになったの!」


「マジ? 中村、お産の手伝いとかできんの?」


「まさか! イトコの面倒見とくんだって! それより蓮は、行かなくていいの? もうすぐ10時だよ」


「部活中止になった」


「え、そうなんだー。じゃぁ、2人とも暇になっちゃったね? あ! なんか漫画貸して!」


「あー、適当に持ってけば」


 すると、蓮は華を部屋に招き入れた。


 二人揃って予定がなくなり、自宅で過ごすことになった華と蓮。


 時刻は、もうすぐ10時を迎えようとしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る