第432話 キスと約束


「そんなに疑うなら、今から、キスでもして見せようか?」


 その言葉に、大野だけでなく、あかりも驚いた。

 いや、あかりが驚くのは、無理はなかった。


 だって、いきなりキスをするなんて言い出したのだ!しかも、大野さんの目の前で!


「な、何を言って……っ」


 想像もしていなかった事態に、あかりが、飛鳥を恐る恐る見上げる。

 すると飛鳥は、あかりの腰を抱き寄せながら


「だって、大野さん、疑ってるみたいだし、俺たちの仲をしっかり分かってもらうためには、これが一番かなって……大丈夫だよ。もしてる仲なんだし、今更、恥ずかしがる事じゃないだろ」


(な、何を言ってるの!?)


 キス以上のこと!?

 以上って、つまりそういうことを、経験済みってことよね!?


 ていうか、いつから、そんな設定加わってたの!?

(↑最初から)


「で、でも、キスなんて……っ」


 飛鳥の言葉に、あかりは、更に慌て始めた。

 だが、飛鳥は、そんなあかりを更に抱き寄せると


「見られながらは、恥ずかしい? まぁ、人前でするのは初めてだしね」


(いやいや、人前どころか、キスすらしたことがないんですけど!?)


 そりゃ、神木さんにとっては、キスなんて大したことじゃないだろう。だが、こちらは違う!


 なんせ、恋人すらいた事がないのだ。

 それなのに、キスなんて……!


(ほ、本気なの? 本気で……っ)


 腰を抱かれているせいで、逃げるに逃げられず、あかりは、頬を赤くし狼狽する。


 確かに両思いだし、お互いに気持ちも自覚している。だけど、付き合っているわけではないし、付き合うつもりもない。


 それなのに、キスなんて──


(あ……でも、ここで嫌がったら、大野に、もっと疑われちゃうんじゃ……っ)


 大野のせいで、赤くなった頬は、すぐに青くなった。

これ以上、大野さんに粘着されて、本当にストーカーになったたら、怖い。


 なら、飛鳥の言う通り、このまま、キスを……した方がいいのかもしれない。


「あかり」

「……ッ」


 すると、あかりの頬に、飛鳥が手を触れた。


 顔をあげられ、キスする体勢に持ち込まれれば、その瞬間、飛鳥の青い瞳と目が合った。


 艶めいた視線に、意識が混乱する。


 その綺麗な瞳には、今はもう、あかりしか写っていなくて、今からキスをすると、自覚すればするほど、胸の奥がキュッと締め付けられた。


「目、閉じてて」

「あ……っ」


 やけに手馴れた感じで、飛鳥が微笑みかければ、それとは対象的に、あかりは、恥ずかしさで、いっぱいになった。


 こんなことなら、さっき『好き』と言ってしまえばよかった。そうすれば、キスをするなんて話にはならなかったかもしれない。


 だけど、今更後悔しても、もう後の祭りだ。


 なにより、大野さんに、粘着されて不安な日々を過ごすか。はたまた、今ここで、飛鳥とキスをするか。


 どちらかを選べと言われたら、答えは、考えるまでもなく明白だった。


 すると、飛鳥の顔が近づいた瞬間、あかりは、キュッと目を閉じた。


 それは、まるで、キスを受け入れるかのように──


 いや、実際に覚悟をきめたのだろう。


 きゅっとあかりがしがみついた瞬間、空気はたちどころに甘くなった。


 そして、飛鳥が目を閉じれば、二人の距離は、更に近づいていく。


 ドクン、ドクン、と鼓動が早まり。

 まだ、触れてもいないのに唇が熱くなる。


 こんなにドキドキしたことは、なかった。


 触れた指先の感触。

 密着した身体の熱。

 囁くような甘い声と、揺蕩う香り。


 その全てに、意識を持っていかれる。

 

 だって、あかりにとっては、初めてのことなのだ。

 好きに人に、キスをされるのは──


「ちょっと待ったぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

「「!?」」


 だが、その瞬間、大野が叫んだ!


「待って待って待って、やめてッ! そんなの見せつけられたら、俺の心が折れる! ぽっきりと折れる!」


(むしろ、折れて欲しいんだけど)


 二人のキスを阻止しつつも狼狽える大野を見て、飛鳥は、心の中でツッコんだ。


 できるなら折れて、粉々にくだけちって欲しいところだ。


 しかし、今のイチャつきぶりを見て、それなりのダメージは食らったらしい。


 大野は、泣く泣く、捨て台詞を吐きはじめた。


「分かったよぉ、君たちがラブラブなのは! でも、あかりちゃんを泣かしたのだけは許さない! だから、水族館は諦めて、映画館に行ってこい!!」


「……そうだね。今度二人で『ニャンピース』見てくるよ」


 すると、ニコニコと笑った飛鳥は、大野にむけ、ヒラヒラと手を降って、大野は、まさに負け犬のようにしっぽを巻いて逃げ出した。


 というか、部屋に入った。


(はぁ……とりあえず、なんとかなったな)


 そして、大野がいなくなった廊下で、飛鳥はホッと息をつく。


 悪い人ではないが、相変わらず面倒臭い人だ。


「ごめんね、あかり。急にこんなことして」


 すると、飛鳥が、あかりから手を離し、優しく語りかけた。


 だが、あかりは、そんな飛鳥の前で、顔を真っ赤にして、涙目になっていた。


「あ……ごめん。ビックリしたよね?」


「ビ、ビックリするに決まってるじゃないですか! いきなり……あんなこと、言いだして……っ」


「あー。ごめん、ごめん。でも、これが一番いいと思って」


「一番いい?」


「うん。だって、自分の好きな人が、他の男とキスしてる所なんて見たくないだろ。だから、大野さんなら、絶対止めると思ったんだよ。それに、仲がいいのも見せつけられるし、一番収まりがいいかなって」


「………」


 そう言って、お茶目に笑った飛鳥を見て、あかりは拍子抜けする。


 どうやら、大野さんに止められるのを計算した上での、キスしようといったらしい。


(私、覚悟までしちゃったのに……っ)


 勝手に、その気になって、受け入れようとしていた自分に、あかりは、恥ずかしさでいっぱいになった。


 だが、そんな羞恥に染まったあかりの心情には気付くはずもなく、飛鳥は、茶化すように


「もしかして、する気になってた?」


「……っ」


 それは、ほんのちょっとからかっただけ。

 ほんの少し、意地悪を言っただけ。


 だが、あかりは、その後、茹でたこのように 真っ赤にし、恥じらいつつ俯いた。


(あれ? 否定しない)


 すると、反論すら飛び出さず、顔を赤くするあかりに、今度は飛鳥は瞠目する。


(もしかして、キスをしても良かったのかな?)


 そう思うと、身体の奥が一気に熱くなった気がした。


 もちろん、人前で、キスをしようとは思わないけど、それでも受け入れようとしてくれたのなら


(やっぱり、俺のことを好きだよね?)


 それは、何度と確かめて、確信した事。


 頑なに『好き』とはいわなくても、触れることは許してくれる。


 さっきみたいに、頬に触れても、抱き寄せても、キスをしようとしても、あかりは、嫌だとは言わない。


 でも、それは、きっと俺のことを、好きでいてくれるから──


「ねぇ、する?」


「……え?」


 頬にまた、飛鳥の指先が触れた。


 どこかイタズラめいた笑みを浮かべて、反応を確かめるように。それでいて、駆け引きでも楽しんでいるかのように。


 もちろん、その『続き』の意味がわからなかった訳 ではなかった。


 あかりは、悔しそうに飛鳥を見つめると──


「結構です!!」


「そっか、残念。てか、大声出すなよ。大野さんに聞かれたらどうすんの」


「だ、だったら、もう帰ってください」


「だから、玄関まで送るっていっただろ。実際、不審者に遭遇してるし」


「だからって……それに、もう目の前ですから!」


 すると、あかりは自宅の前に駆け寄り、玄関の鍵をあけた。中は真っ暗で、一人暮らしのあかりに「ただいま」を言う相手はいない。


 とはいえ、電気がつけば、部屋は明るくなり、飛鳥は、あかりが、部屋に入ったのを見届けたあと


「ねぇ。映画、いつ見に行く?」

「え?」


 さっきの話だろう。

 いきなり映画の話を振られ、あかりは目を瞬かせた。


「映画って、さっきのは演技じゃ」


「うん。そのつもりだったけど、大野さんに行けって言われちゃったし。また、あとで映画に行ったかどうか詮索されても困るし、一緒に見に行って、話合わせてた方がいいかなって」


「…………」


 まさか、大野さんの、あの発言を利用されるとは。


「て、テキトーに、口裏をあわせればいいのでは?」


「でもあかり、嘘つくの下手だし。さっきも俺のこと『神木さん』って言おうとしてたし」


「う……っ」


 確かに『飛鳥さん』と言わねばならないところで『神木さん』と言いかけて、口を塞がれた。


 言われたとおり、あかりはあまり嘘が得意ではない。


 なにより、自分の気持ちだって、隠し通すつもりが、ばれてしまったのだから。


「じゃぁ、またLIMEするから」


「え!?」


「デートの日程決めなきゃいけないだろ」


「デ、デートって……っ」


 すると、あかりは、更に困惑する。


 付き合ってもいないのに、デート?

 ていうか、偽の恋人になりすますためのデート?


 まず、今の自分たちの関係はなんなんだ?


「反論はなしでね! それと、俺からのLIME無視したら、また大学で話しかけるよ」


「えぇ、それは困ります!」


「じゃぁ、返事は返してね──それと、デートたのしみにしてるから」


 すると『約束』とでもいうように、飛鳥が小指を差し出してきた。


 これは、LIMEの返事に対しての約束か、はたまた、デートに関してか?


 いや、この感じなら、どちらもと言ったところか?


 あかりは、結局、逆らいきれず、飛鳥の指に、そっと自分の小指を絡めた。


「わかり、ました……」


 それは、渋々といったところだったが、確かな約束をむすび、飛鳥が幸せそうに微笑む。


 待つとはいったけど

 何もせずに待つと言ってない。


 あかりが、少しでも

 俺との未来を考えてくれるように


 今は、できることをしていこう──


「じゃぁ、またね」

「はい……また」


 小指が離れると、飛鳥は優しく笑って扉を閉め、あかりは、飛鳥が去ったあとの玄関を見つめながら、静かに立ち尽した。


「なんで、約束なんて……」


 突き放さないといけないのに

 心から突き放せない。


 それどころか、突き放しても

 彼は、何度も結び直そうとする。


 私が解いた糸を

 何度も何度も手繰り寄せて


 また、私の小指に結び直す。


 待ってるから──と、そっと手を掴んで、優しく握りしめてくれる。


「っ……また、なんて言って……約束なんかして……っ」


 自分が、分からなくなる。


 彼に、幸せになってほしい。

 だからこそ、はなれなきゃいけない。


 そう、思ってるはずなのに



 掴まれた手を


 結んでくれた糸を



 もう解きたくないと願ってしまう。




「……私は……どうしたいの……っ」



 心が、揺蕩う。

 決心が、鈍る。


 決めたはずだった。

 もう、あんな悲劇は繰り返したくないと。



 それなのに、なんで、私は



 この糸を、のだろう。





 その後も、飛鳥と約束した小指は


 ずっと、熱を持ち続けていた。




 甘い言葉が反芻し、優しい記憶に酔う。



 まるで、甘やかな毒に、ほだされるかのように──


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