第212話 独りと二人


 その重苦しい話を終えたあと、部屋の中はシンと静まり返った。


 エレナとあかりは、飛鳥の話をただ何も言わずに聞いていて、時折眉をひそめたり、目をそらしたりしながらも、その話に真剣に向き合っていた。


 もう二度と話すことはないだろうと思っていた、幼い頃の話。


 モデルをしていた時の話。


 怪我をしたあと、部屋に閉じ込められた話。


 両親の離婚の話。


 そして、あの日逃げ出して



 ゆりさんが刺された時の話──…




 思い出す度に、目眩がしそうになるのを必死にこらえた。でも、それでもすべてを話し切ると、飛鳥は深く息をついたあと、下げていた視線を再びあげる。


「……大丈夫?」


 気がかりなのは、何よりもエレナの反応だった。


 自分の母親が──

 その事実を知らされたのだ。


 知りたくなかったと、怒鳴られるかもしれない。


 怖いと、泣かれるかもしれない。


 状況が飲み込めず、パニックになるかもしれない。


 だが、エレナは──


「……うん、大丈夫」


 そう言って、少し声を震わせただけで、特に取り乱すようすはなかった。


 本当に、大丈夫なのかはしれない。


 でも、冷静でいてくれたことに、少なからず安堵した。


「ごめんね、急にこんな話をして……でも、あの日俺は、今日の君みたいに家から逃げ出して、ゆりさんに助けられて……でも、そのせいで、ゆりさんは、あの人に刺された。今でも思い出すし、何度も後悔した。俺が家から逃げ出さなければ、ゆりさんが巻き込まれることはなかったのにって……」


「…………」


「こんな話、子供の君に話すべきじゃないのは分かってる……でも、あの人は、カッとなると何をするかわからない人だよ。日頃は穏やかで物静かな人だけど、怒ると手に負えない。きつい事を言うけど、エレナの行動ひとつで、また"誰か"が巻き込まれて、俺と同じようなことが起こる可能性だってある。なら、もう少し考えて行動した方がいい……君にもいるんじゃないの? 巻き込みたくない"大事な人"──」


「……っ」


 飛鳥のその言葉に、エレナは、そっとあかりに視線を向けた。


 あかりを心配そうに見つめるその表情に、さっき必死になって逃げていたのは、やはり、あかりを巻き込みたくなかったからだと確信し、飛鳥は、改めてエレナに声をかける。

 

 逃げ場を塞がぬように、優しく、そっと──


「モデル……したくないんだよね? それ、あの人に言える?」


「……っ」


 だが、その瞬間、ビクッと肩を弾ませ、不安げに見つめられた。


 その表情から、今のエレナの気持ちが、痛いくらい胸に伝わってくる。


 言えるわけない。

 なぜなら、自分だってそうだったのだ──…


「怖いよね、分かるよ。俺もそうだった……でも、あの人は。唯一聞くとしたら、"エレナの言葉"だけだよ」


「でも……っ」


 エレナの目にじわりと涙が浮かんで、横に座るあかりがエレナを見つめ、不安そうに眉を下げた。


 それでも、水をさすことなく二人の話を聞くあかりを見て、飛鳥は目を細める。


 そう簡単に、解決できる話ではなかった。


 今、飛鳥にできるのは、あかりを巻き込ませないことと、あの人がどんな人間なのか、エレナにしっかり理解させること。


「……俺も詳しくは知らないけど、あの人は、昔モデルをしてたらしい。でも身体に怪我をして、出来なくなったって」


「確かに、怪我はしてるよ……背中と腕に」


 一緒にお風呂に入っていた時、母親の身体に痛々しい傷があったのを、エレナは思い出した。


「……まぁ、そのせいなのかは定かじゃないけど、あの人は、モデルの仕事に酷く"執着"してる」


「そ、それは、そうかも……しれないけど………ねぇ、飛鳥さん」


「ん?」


「私ね、もうモデルはやりたくない…っ、それは、分かってるんだけど……でも、もし、私がやりたくないなんて言ったら……お母さん、?」


「……」


「どうしよう……嫌だけど、やっぱり言うのは怖くて……っ」


 顔を青くし、肩を震わすエレナは、酷く不安そうにそう言った。


 怖いのは……本音を伝えられないのは、なにも、"しかられるから"だけじゃなかった。


 自分もあの頃『やりたくない』と分かっていても、言えなかった。


 やめたいなんて言ったら、お母さんが、悲しむかもしれない。


 泣いちゃうかもしれない。


 そう思ったら、言えなかった──



 そして、母が怒るのは、全て自分が悪いからだと決めつけて、閉鎖された空間で毎日のように怒鳴られていくうちに、心が次第に麻痺していった。


 逆らったら、怒られる。

 いい子にしてなきゃ、怒鳴られる。


 捨てられたらどうしよう。

 嫌われたらどうしよう。


 俺には



 お母さんしかいないのに──…




 そんな、絶対的な母の存在に怯えて、それでも、求めてしまう『幼い心』が、無意識に、あの人を拒絶することを拒んでいた。


 でも───


「俺も昔は……あの人が大好きだったよ」


「……」


「父さんと離婚で揉める前までは、本当に優しい人で……だから、俺も『やりたくない』と思いながらも、モデルの仕事を続けてた。『お母さんが喜んでくれるなら、それでいいかな』って……でも、それじゃダメだった」


「………」


「自分を殺して、誰かを幸せにしても、結局は、どちらも幸せにはなれない。いつか必ず『綻び』が生まれる。今日、エレナが逃げ出したのも、そういうことだろ?」


「……ッ」


 その言葉に、エレナはキュッと唇を噛みしめた。


 次第に綻び始めた、母親との絆。


 『これは全て自分のためだ』と言い聞かせながらも、それを素直に信じきれない自分がいた。


 そして、今日逃げ出したのは、その話の通り、自分の心を殺してきた結果なのだと……


「あの時、俺がもっと強かったら、あんなことには、ならなかったかもしれないって、今でも思うよ。我慢なんてしないで、嫌なら嫌だと言えば良かった。怖くても、怒られても、ちゃんと話してみれば、また違った未来があったかもしれないって…」


「……」


「なにも、いきなり『辞めたい』という必要はないよ。むしろ、それは逆鱗に触れかねないし……でも、言わなきゃ分からないこともある。今を変えたいなら、少しずつでいいから、本音を伝える勇気を持たないといけない。また閉じ込められるかもしれないし、怒鳴られるかもしれないけど、それでも言い続けたら、どこかで気づいてくれるかもしれない……エレナの気持ちに」


「出来る……かな?」


「できなければ、ずっとこのままだよ」


「……っ」


 ぐっと目に力を込め、泣き出しそうになるのを必死に堪えるエレナに、酷く胸が締め付けられた。


 まだ小学四年生の女の子に、母親が怖くて仕方ない子に、なんて、ひどい仕打ちだろう。


 自分だって、未だに怖いのだ。


 あの人に



 たった一人で立ち向かうことが──…




 すると飛鳥は、デスクの上にあったメモ帳にスラスラと何かを書き始めた。


 そして、それを手に再びエレナの前に戻ると、飛鳥はその紙を、そっと手の中に握らせる。


「俺の連絡先。なにかあったら、今度は、あかりじゃなくて、俺に連絡して」


「……え?」


 渡された紙には、携帯の番号が記されていた。


「辛くなったり、話したくなったら、何時でもかけてくればいい。閉じ込められていても、部屋の中ならこっそり話せるだろうし、俺ならアドバイスだってできる」


「で、でも……」


「大丈夫だよ。俺は『他人』じゃなくて、あの人の『息子』だから、いくらでも巻き込めばいい。それに──もう、独りは嫌だろ?」


「……っ」


 メモを手にしたエレナの手をギュッと握りしめながら、飛鳥が微笑む。


 たとえ、家の中で閉じ込められて、一人きりだとしても、決してこの子を「孤独」にしないように──


 そんな思いを込めて、その小さな手を握りしめた。


「ほ、ほんとに……いいの?」


「いいよ。これでも一応、エレナの『お兄ちゃん』だしね」


「っ……あはは」


 そんな飛鳥の言葉に、エレナは目にじわりと涙を浮かべて、少しだけ安心したように微笑んだ。


 兄妹なんて、まだ全然自覚はないけど、それでも、同じ母親、同じ境遇。


 それは、血の繋がり以上に、何よりも共感できるものだった──



「……ぅ、…うぅっ」


 すると、ずっと堪えていたエレナの瞳から、涙が溢れだした。


 流れた涙は、エレナの頬をつたい、そして、飛鳥の手の甲にポタリと落ちる。


 きっと、あかりを巻き込まないようにと、ずっと一人で戦っていたのだろう。


 涙は、とめどなく流れ、だが、それは同時に、不安な思いも一緒に流していく。


「ありが……とう……飛鳥さん……っ」


 そして、そんなエレナを見つめ、飛鳥は思う。


 どうか、これ以上

 この子が傷つくことがないように──


 どうか、これ以上

 あの人に傷つけられる人が現れないように──


 エレナの手を握りしめながら、飛鳥は、切にそう願ったのだった。

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