第198話 男と女


「教えてあげよっか、俺が男だってこと」

「……っ」


 瞬間、あかりは息を詰めた。


 どこか熱っぽい視線と艶のある声。そして、浴衣の合わせ目から、形のいい鎖骨が覗き見えた瞬間、あかりは漠然とした不安にかられた。


「か……神木さん?」


 壁にぴったりと背をつけ、あかりが恐る恐る飛鳥を見上げた。すると飛鳥は、そんなあかりの瞳を見つめたまま


「お前さ、俺のことどう思ってるのか知らないけど、俺とだったら"何も起こらない"と思ってるなら、大きな間違いだよ。俺だって男だし、その気になれば、このまま押し倒すことだってできるんだけど?」


「……っ」


 さらに距離をつめ、まるでこちらの反応を伺うように、その青い瞳に覗きこまれた。決して目をそらさず、まるで追い詰めるようなその姿は、いつもの彼とは、全く違っていて──


「抵抗しないってことは、いいってこと?」


「え!? や、ちが……!」


 瞬間、あかりは、咄嗟に飛鳥の肩を掴んだ。


 狭い玄関に、二人きり。状況的にも良くないことが過ぎって、あかりは押しのけようと飛鳥の体に触れたが、その身体はビクともせず、逆に触れた肌の感触に、不安はまずます増殖する。


(じょ、冗談だよね……っ)


 だが、それでもあかりは、飛鳥がそんなことをするとは思えなかった。


 なぜなら、自転車から庇ってくれた時も。

 おばあさんの荷物を届けてくれた時も。

 大野さんから守ってくれた時も。


 彼は、なにかと、優しかったから──…


「あかり」


「や、神木さん……やめて……ください」

 

「嫌だよ。あかりが悪いんだろ。俺のこと女扱いなんてするから」


「だ、だから、それは……そんなつもりで言ったんじゃ……っ」


「そんなつもりがなかったにしても、今更遅いよ。それに、そんな顔されたら、益々やめられなくなる」


「ん……ッ」


 ぐっと距離が近づくと、今にもキスできそうなくらい、近い距離で囁かれた。


 見つめる視線は、どこか男性的で、その艶を含んだ瞳に鼓動が一気に早まる。


 すると、再度逃げようと飛鳥の肩を押しやった瞬間、あかりの指先に、金色の長い髪がサラリと流れ落ちてきた。


 自分とは違う香りが、空間に舞う。


 お互いの香りを感じるほど近い距離。それは、あかりの不安をさらに加速させ、体は小さく震え始めた。


 抵抗しなきゃ、そう思うのに、身体は全く動かなくない。


「っ……神木、さ……やめ……っ」


 なんの抵抗もできず、あかりは、ただただ懇願する。だが、飛鳥は、そんなあかりの耳元に唇を寄せ、更に囁きかけた。


「0点」


「………………え?」


 だが、その次に聞こえた言葉に、あかりは、ポカンと口を開けたまま硬直する。耳元で囁かれた声は、どこか呆れたような、そんな声で


「れ、0点……?」


「うん、0点。全然ダメ。全く抵抗できてないし、何より、そんな可愛い反応してたら、逆に煽るようなものだよ。それとも、マジで誘ってんの?」


「…………」


 さっきとは打って変わって、全く色のないその言葉に、あかりは、不思議と肩の力が抜ける感じた。


「さ、誘って……ません」


「分かってるよ。あと、さっきのは冗談だから、安心して」


「……冗談って……でも、さっきは」


「うん、あれ嘘。ごめんね、酷いことして。悪いのは、100%俺だけど、でも、これで、少しはわかっただろ?」


「え?」


「ホントあかりって、自分のことは二の次って感じだよね。前も、倒れたからって俺のこと家に上げちゃうし……今日も心配して、慌てて出てきたんだろうけどさ。男と二人っきりだってのに、全く警戒してない上に、スキだらけで……。何かあってからじゃ、遅いんだから……」


 そう言うと、飛鳥はあかりの前から退いた。


 目と鼻の先だった距離は、また元の距離に戻って、まるで「何もしない」ということを態度で示しているようだった。


 だが、その後、飛鳥は、にっこりと微笑むと。


「ていうか、お前、前は俺のこと不審者扱いするくらい警戒心むき出しだったよね? あの時の警戒心どこいったの? それとも、女みたいな俺は一切手を出さないだとでも思ったのかな? さすがの俺も、女扱いされて、無害そうとまで言われたら、男として、黙ってられないんだけど?」


「あ、はい……それは、すみません。ごめんなさい。どうか許してください」


 優しく諭されたかと思えば、これまた、にっこりと笑って捲し立てられ、あかりは顔をひきつらせた。


 だが、いつもの雰囲気に戻った飛鳥のみて、あかりは同時にほっとする。


 確かに、軽率だった。


 彼なら大丈夫だと勝手に決めつけて、言われるまま家に入れてしまった。


 だが、本当に彼なら大丈夫だと思ったのだ。まぁ、実際に大丈夫だったのだから、読みは外れてはいないのかもしれないけど


「……あかり?」


 すると、俯き黙り込んだあかりをみて、飛鳥がまた心配そうに、その顔を覗き込んできた。


 本気で演技してしまったばかりに、思った以上に怖がらせてしまったかもしれない。


「ごめん、怖かったよね……大丈夫、どこか痛い所とかない?」


 そういって、不安げに見つめる姿は、あかりの身をひどく案じているのが伝わってきた。


 確かに、凄く怖かった。

 身体が竦んで、まともに抵抗すらできなかった。


 でも、思い返せば、決して乱暴に扱われたわけではなく、それどころか、例えどんなに距離が近づこうとも、身体に触れられることは一切なかった。


 手はずっと壁に着いたままで、空いた片手は、荷物を持っていた。


 きっと、危機感を持たせるために一芝居打ちながらも、触れないように、怖がらせないように、配慮していたのだろう。


 もしこれが、本気だったら

 きっと、こんな物じゃすまない──…


「あの……大丈夫です。どこも痛くはありません」


「……そう。まぁ、俺も大野さんに聞かれたらマズいと思って『入れて』って言ったのは悪かったよ。でも、あかりは女の子なんだから、いくら顔見知りだからって、あまり気を抜くなよ。どんなに仲が良くても、男と女なんて何が引き金になるか分からないし、仲良くなってから、豹変するやつもいるんだから」


「そ、そうですよね……気をつけます」


 前に、弟にも同じようなことを言われたのを思い出した。再度、忠告されるなんて──と、あかりは自分の浅はかさを深く反省する。


 すると、素直に反省したあかりを見て、飛鳥もほっとしたのか、その後、手にしたものをあかりの前に差し出してきた。


「はい、コレどうぞ!」


「え? なんですか?」


「差し入れ。夏祭り、行きたがってたって聞いたから」


 そう言って、差し出した袋からは、何やら美味しそうな香りがした。そして、その中身が、何かわかった瞬間、あかりは再び飛鳥を見上げた。


「え、私にですか!? い、いいですよ、そんなことして頂かなくても!」


「そう言うなよ。あかりのために買ってきたんだから。それに、流石の俺も『彼女ほったらかして、5股かけてる』とまで言われたら、何もしないわけにもね」


「ご、5股!?」


「うん。大野さん、マジで人の話聞かないから気をつけろよ」


「なんか、色々大変だったんですね……すみません。私が余計なことを言ったばかりに……」


「いや、いいよ。元はといえば、俺がついのがいけないんだし。まぁ、大したものじゃないけど、少しくらいは祭りの気分を味わえるんじゃない?」


 ニコリと笑って、飛鳥がそれを差し出すと、あかりは、おずおずとそれを受け取った。


「なんか神木さんて、優しいのか意地悪なのか、よく分からない人ですね」


「え? そう?」


「はい。さっきあんなことしといて、こんなの用意してるなんて……ちょっと反則っていうか」


「あはは、たまに言われる。惚れるなよ?」


「あ、ないです! それは」


 にっこり笑顔の飛鳥に、これまたあかりもニッコリ笑って否定の言葉を返した。すると、いつもの雰囲気に戻ったあかりを見て、飛鳥も安堵する。


「じゃぁ、大野さんの件もあるし、今はまだ"俺の彼女"ってことにしとけよ」


「はい。ありがとうございます。あと、さっきは"女友達"だなんて、失礼なこといってすみませんでした」


「いいよ。俺も今日は、結構酷いことしちゃったから。それじゃぁ、俺、妹弟待たせてるから、またね!」


「はい。おやすみなさい」


 すると飛鳥は、再び玄関の扉を開けて帰って行って、あかりはそれを見送り、玄関に鍵をかけた。


「ッ……びっくり……した…っ」


 玄関先で、ズルズルとしゃがみこむと、あかりは、先程のことを思い出して、深く深く息をついた。


 日ごろは、危機管理だって、それなりにしてる。

 でも、彼を相手にすると、何故か気を抜いてしまう。


 女性みたいな見た目のせい?

 それとも、なんだかんだ優しいから?


 いや、もしかしたら、片耳が聞こえていない事に気づいて、時折、気遣ってくれるからかもしれない。


 知っていてくれるのは、それだけでも気が楽だった。多少聞き逃しても大丈夫だと、変に気を張ることもなくて。だからか、彼のそばは居心地がよくて、安心してしまう。


 でも──



(全然、ビクともしなかった……)


 押しのけようと、飛鳥の肩に触れた感触を思い出して、あかりは眉をひそめた。


 自分の力じゃ、どうにもできなかった。


 女の人みたいに、綺麗な人。

 だけど、さっきの彼は、確かに「男の人」だった。


 視線も、身体付きも、その声も、全部が「男性」だった──…


(……そりゃ、怒るよね。女扱いなんてされたら。二度と言わないようにしなきゃ…っ)


 女扱いは、どうやら彼の地雷らしい。


 あかりは、そう確信すると、もう二度とこのような失言を繰り返さないようにと、固く心に誓ったのだった。

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