第197話 玄関と距離
「あのさ、お前に一つ、話しておきたいことがあるんだけど」
薄暗い玄関先で、真面目な顔で、そう告げた飛鳥に、あかりは戸惑うような視線を向けた。
畳半分ほどの玄関は、大学生が二人が並べば、あっという間に埋まってしまった。
普段より、距離が近い。
だが、そんなことより、話の内容が気になった。
「あの、なにか?」
「お前、大野さんに『夏祭りに行きたいけど、行く相手がいない』って言ったんだって?」
「え?」
少し呆れ気味に言われ、あかりは、一瞬目を瞬くと、夕方の大野とのやり取りを思い出した。
「あ! はい、言いました! でも、それがなにか?」
「何か?じゃないだろ。あのさ、彼氏がいる女が『いく相手がいない』なんて言ったら、彼氏なにやってんだって話になるだろ。俺、今日、あかりのせいで、大野さんに疑われて大変だったんだけど。お前、俺の彼女だって設定、もう忘れたの?」
「う……」
にっこりといつもの悪魔的な笑顔で捲し立てられ、あかりは顔を引き攣らせた。
どうやら、なにかあった訳ではなく、失言を
だが、はっきりいって
「すみません。ほぼほぼ忘れてました、その設定」
「……お前、ちゃんと話し合わせろよ」
「合わせろって言われても。大体、そんなこと言うために、わざわざ来たんですか?」
「そんなことじゃないよ。実は大野さん、まだ、諦めてないんだよ」
「え?」
その言葉に、あかりは瞠目し
「う、嘘ですよね?」
と、表情を強ばらせた。だが、飛鳥は
「嘘なんてついてどうするんだよ。まぁ、俺も驚いたけどね。まさか、直接『別れろ』といわれた挙句『破局しそうになったら教えてね』まで言われるなんて……なかなか厄介なやつに目をつけられたね、あかりも」
「っ……で、でも、あれから大野さん全く押しかけてこなくなって! だから、もう大丈夫だと」
「それは、俺が釘刺しといたからだよ。『俺の彼女にちょっかいださないでね』って」
「そ、そうだったんですか? それは、その……ありがとうございます」
飛鳥の対応に感謝しつつも、あかりは、少し怯えた表情をして俯いた。
(やっぱり……怖いよな?)
無理もない。自分に好意を向ける相手が、隣に住んでいる。しかも、彼氏(偽)に直接別れろなんていってくるほど、執着心の強い相手。
下手すれば、ストーカーになりそうな要注意人物だ。一人暮らしのあかりが、不安を抱くのは当然だ。
「あのさ。とりあえず、暫くは俺の彼女ってことにしとけよ。あと、早くココ引っ越せ」
「ひ、引っ越せって! そう簡単に言わないでくださいよ……!」
「まー、すぐには無理だろうけど。あと『大学では、付き合ってることは内緒』って設定になってるから、そこも、ちゃんと口裏合わせといて」
「え! なんですか、その設定!?」
「仕方ないだろ! あーでも言わなきゃ、きりぬけられなかったんだから!」
今思い出しても、あれはヤバかった。
まぁ、大野が割り込んできたおかげで、女子達から逃げられたのもあるが……
「とにかく。もう、大野さんの前で墓穴ほるなよ?」
「墓穴と言われても、具体的にどうすれば?」
「そうだな。まぁ、余計なこと言わないように話をそらすとか? あと、間違っても『神木さん』なんて、名字呼びしたりするなよ」
「え? あー、確かに、彼氏を名字呼びするのは不自然ですよね。じゃぁ……飛鳥さんといえばいいでしょうか?」
「……!」
瞬間、その聞きなれない言葉に、飛鳥は、あかりを見つめたまま黙りこんだ。すりと、突然無言になった飛鳥を見て、あかりは慌てふためきながら
「あ、ごめんなさい! おかしかったですか!?」
「いや、別におかしくはないけど……ただ、普通は呼び捨てかな、と思っただけで」
「呼び捨て……じゃぁ、呼び捨てで呼んだ方がいいですか?」
「………」
あかりが、小首を傾げながら問いかける。まぁ、呼び捨ての方が、恋人らしいのかもしれない。でも……
「……いや、いいよ。そのままで」
そういった後、飛鳥は、あかりから視線だけをそらつつ、少しだけ、幼い頃を思い出した。
(そういえば……母さんも、父さんのこと『さん』づけで呼んでたっけ?)
不意に"ゆり"が、侑斗のことを『侑斗さん』と呼んでいたことを思いだす。
性格は全く違うのに、笑った時の雰囲気とか、時折発せられる言動が、すごく似ている時がある──…
(まぁ、だからどうってわけじゃないけど……)
とはいえ、似ているところはあっても、全くの別人。だが、こうして、あかりを気にかけてしまうのは、やはり似ているからなのか?
「……?」
だが、そんなことを一人考えていると、不意に甘い香りが鼻腔をかすめた。
見れば、お風呂上がりだったのか、あかりの髪は少し湿っていて、シャンプーの清潔感のある甘い香りが、近い距離から香ってくる。
「あれ? もしかして、お前、風呂上がりだった?」
「あ、はい」
膝丈のTシャツを一枚だけ着たあかりは、なんの躊躇いもなくそう告げて、飛鳥はおもむろに眉を顰めた。
決して露出度が高いわけではないが、さすがに男を出向かえるのに、Tシャツ一枚というのは、どうだろうか?
それに、今まで特に気にしたことはなかったが、ゆったりしたシャツの下にある身体のラインが妙に艶めかしく、あかりは、それなりにスタイルがいい方かもしれない。
「お前……いつもそんな格好で、人前(男)に出てくるの?」
「え?! あ、これは、その……ごめんなさい! お客様を出迎える格好じゃないですよね! でも、こんな時間に突然訪ねてくるから、てっきり何かあったのかとおもって」
「え?」
すると、そのあかりの言葉に、前に倒れた時のことを思い出した飛鳥は、なんとも言えない表情をうかべた。
(やたら出てくるのが早いと思ったら、俺のこと心配して……っ)
だから、外見も気にせず、あんなに慌てて出てきたのか。あかりらしいと言えば、あかりらしい。なにより、一番悪いのは、こんな時間に訪ねてきた自分の方だ。
だが、いくらなんでも、無防備すぎるというか、危険すぎるというか、前にも気をつけろと忠告したのに、本当に分かっているのだろうか?
「あのさ、心配かけたのは申し訳ないけど、さすがに、その格好は……(目のやり場に困る…っ)」
「あ、ごめんなさい。つい慌ててて。でも、今回は神木さんだったから出てきただけです」
「え? 俺だったから?」
「はい。いつもなら居留守をつかいますし、それに、前に約束しましたよね?『いつでも話、聞きますよ』って──」
「………っ」
瞬間、ふわりと笑ったあかりを見て、胸の奥が熱くなった。だから、こんな夜でも、ちゃんと話を聞こうとして……
(そっか、あの時の約束……覚えていてくれたんだ)
「それに神木さんて、なんだか女友達って感じですし!」
「……は?」
だが、次に放たれた言葉に、飛鳥は瞠目する。
女……友達?
ドン──!!
「ッ……!」
瞬間、壁に手を付いた飛鳥は、そのままあかりを壁際に追い詰めた。
片手をついて覆い隠すような体勢。すると、お互いの顔が、やたらと近くに見えるのに気づいた。
「え?……かみ」
「お前、それ本気で言ってんの?」
「え?」
「俺のこと、女友達だなんて、本気で思ってんの?」
「……っ」
一瞬にして変わった空気に、あかりは目を見開いた。
あ、ヤバい。なんとなく、そう、おもった。
自分は、また彼を怒らせてしまったのかしれない。
「あ、あの……ごめんなさい。女友達っていうのは、別に女の人みたいといっているわけじゃなくて……その、神木さんって、とても優しいし、話しやすいし、だから、女の子といるみたいに安心できるというか、気が楽というか、無害そうというか……そんな意味での、女友達であって……その、別に……悪い……意味では……っ」
「…………」
言い訳するたび語尾が弱くなるのは、きっと一切視線をそらさず見つめられているせい。
青い綺麗な瞳が、まるで射抜くように、こちらを見つめていた。
あかりは、その視線に耐えきれず、逃げるように顔をそらすが、飛鳥は、そんなあかりを見つめ、また綺麗な笑みを浮かべた。
「へー……無害そうね。お前、いくらなんでも気を抜きすぎなんじゃない?」
「え?」
「確かに、俺こんな見た目してるし、よく女に間違えらるよ。でと、それでも『男』なんだけど?」
「ッ……」
瞬間、飛鳥が更に距離をつめた。
普段より近い距離に、困惑する。
いつもより低い声に、戸惑う。
「あの、神木さ……っ」
「そんなに、女みたいって言うなら、教えてあげよっか?」
「……え?」
「俺が、男だってこと──」
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