第170話 あかりと理久
「……理久?」
電話口から響いてきた声は、久しぶりに聞く声だった。
あかりは、その声にほっとしたような柔らかな笑みを浮かべると、いつものように明るく返事を返す。
「お母さんかと思ったら、どうしたの? 理久がかけてくるなんて、珍しい」
『別にかけたかった訳じゃねーからな。母さんが「あかりは夏休み、帰ってくるのかなー」って言ってたから、代わりにかけただけで』
母親のスマホから代わりにかけてきた少年は、噛み付くような、荒々しい声を発した。
あかりと同じく栗色の髪をした、まだ声変わりすらない少年の名は、
『姉ちゃん、夏休みどうすんの? かえってくんの?』
「うん。帰るつもり。お父さんとお母さんは元気?」
『あー元気、元気! 心配することはなにもねーよ』
久しぶりに交わす家族との会話に、暗く沈んだ気持ちが、ぽっと明るくなる。
現在9歳の理久は、あかりが8歳の時に産まれた、少し年の離れた弟だった。
小さい時から何かと面倒を見てきたからか、姉弟仲は決して悪くはない。
『姉ちゃんさ、一人暮らしはもうなれた? なんか困ってることとかない? あと、欲しい物があったら、母さんが送るって』
「大丈夫。無理いって一人暮らしさせてもらってるんだもん。生活費内でやりくりできるし。それに、大学も慣れてきたよ。お話できる友達も増えたし」
『へー……言っとくけど、男にはくれぐれも気をつけろよ。あと、連絡先とか簡単に教えんなよ』
「教えてな」
だが「ない」と、口にしようとした瞬間、あかりは、不意に飛鳥のことを思い出した。
(あ、そういえば、神木さんに連絡先を聞こうとおもってたのに、忘れてた)
本を返すのに散々悩まされ、聞くつもりでいたのに、色々あってか、すっかり忘れていた。
『なに、今の間?』
すると、突然黙り込んだあかりに、理久が疑心に満ちた声で問いかけてきた。
『まさか、教えたんじゃ』
「え!? あ、うんん! 連絡先とか教えてないよ! 理久は?何も変わったことは無い?」
『俺は、何も……あ、そういえば』
すると、何か思い出したのか、理久は少しだけ声を重くすると
『この前……
「……え?」
蒼一郎──その名を聞いたとたん、あかりは息を詰める。
「そう、なんだ……蒼一郎さん、今、どうしてるの?」
『相変わらず、彼女も作らず、独身つらぬいてるって。ついに、親が結婚相談所にいきだしたって言って笑ってた』
「…………」
古い記憶が、じわじわと蘇ってくる。
寒い雪の日、地べたに頭を擦りつけて、ひたすら謝り続けていた、蒼一郎の姿───
「そう……」
小さく消え入るような声で、あかりが呟くと、それを聞いて、理久は何も言えず、ただ黙り込んだ。
理久にとってもそれは、あまり思い出したくない出来事で、心の中がどんよりと暗くなる。
『姉ちゃんは?』
「え?」
『彼氏作る気ねーの?』
すると、重くなった空気を和らげようと、理久がまた声をあげた。
あかりは、一瞬眉をひそめたが、その後、さも当然とでも言うかのように、間髪入れずに返事を返す。
「ないよ」
『即答かよ。相変わらず色気ねーな』
「悪かったわね。色気のないお姉ちゃんで」
『あ、そういえば、隣に住んでる男の人、アレからどうなの? まだ、しつこいの?』
「あー、大野さん?」
すると、あかりは、先日、飛鳥が恋人と偽って大野を追い返してくれたことを思い出した。
思えば、あの後から、大野が家に押しかけてくることはなくなった。
「うん。もう大丈夫。しっかり諦めてくれたみたい」
『そっか、ならいいけど。まぁ、その調子じゃ、万に一つもねーんだろうけど、もし彼氏出来たら、一度家に連れてこいよ。俺と父さんで一回しめとく!』
「っ……だから私、彼氏もいらないし、結婚もしないって言ったでしょ。それより、理久もお父さんも、親バカとシスコンこじらせすぎ!」
『こじらせてねーし! 普通だ、普通!!』
最近しっかりしてきたとはいえ、8つも年上の姉に対して強気な反応を見せる弟。
昔は、ひょこひょことあかりの後をついてくる、可愛らしい弟だったのだが、今ではその面影はなく、なんとも生意気盛りの弟になった。
だが、相変わらずな弟の反応に呆れつつも、あかりは小さく笑みを漏らす。
どんなに憎まれ口をたたいても、たった二人の姉弟。
姉を心配している弟の気持ちが、手に取るように伝わってくるから。
「ゴメンね、理久。こんな、お姉ちゃんで」
あかりは、手にしたスマホをぎゅっと握りしめると、小さく小さく謝罪の言葉を発した。
「分かってるんだけど、やっぱり……」
『…………』
姉の放つ悲痛な声が、電話越しに伝わり、深く深く胸をついてくる。理久は、その声を聞いて、唇をぐっと噛み締めた。
変わらぬ、姉の決断。
それは、どんなに愛や恋を仄めかしても、変わることはない。
『いいよ、それで。俺も、もう、あんな姉ちゃん、二度と見たくない』
その言葉に、あかりの目には、じわりと涙が浮かんだ。
「ありがとう、理久……」
忘れられない記憶がある。
忘れたかった。
だけど、忘れられなかった。
何度と夢に見て
泣いて
泣いて
泣いて
心が壊れそうになるのを
家族が必死になって支えてくれた。
《あかり、嘘ついてゴメン》
その言葉は
今でもずっと
忘れられない記憶となって、胸の奥に刻まれていて
あんな思いしたくない。
あんな思いするくらいなら。
このまま、一生
恋なんてしない───
『まー任せろ! 心配しなくても、姉ちゃんのことも俺が面倒見てやるよ!』
「!?」
すると、その思考を晴らすように、理久の明るい声が再び響いた。
あかりは、その言葉を嬉しく思いつつも、弟の将来を思い苦笑する。
「いや、まだ小学生のくせに、何言ってんの? それに、理久にも、お母さん達にも迷惑かけるつもりはないし、大学で司書の資格とったら、しっかり働いて貯金もして、老後も一人で生きていけるように、ちゃんと考えてるから大丈夫!」
『18で老後の心配してる女って、どうなの?』
「なんとでもどうぞ! それに、その為に私は今ここで一人暮らししてるんだから! 大学生活が落ち着いたら、アルバイトも始めて、生活費くらいは自分でなんとかするつもりでいるし」
『は?』
すると理久が突然、突くような鋭い声を発した。
『バイト始める気なの!?』
「え? うん。そうだけ」
『ダメに決まってんだろッ!!』
「えぇ!?」
明らかに機嫌の悪い声が耳をついて、あかりは反射的にスマホを遠ざけた。
叱りつけるような弟の声。突然怒り出した弟に、あかりは目を丸くする。
「なんで!? 大学生でバイトしてる人なんて、たくさん」
『そーかもしんないけど、姉ちゃんはダメ!! バイトって、大学終わってからいくんだろ! そんなの父さんも母さんも絶対許さないと思う!!』
「心配しなくても、大丈夫だよ。働くなら、ちゃんとしたお店探すし」
『職場の話じゃねーの! 帰りが遅くなるのがダメだって話!! 暗くなってから帰るなんて危なすぎるし、変なやつに目つけられたらどーすんだよ! 姉ちゃん無駄にスタイルいいくせに、弱そうだし、ボケっとしてるんだから、絶対ダメ!』
「ボケっとなんてしてないし!」
『してるよ! だから、そっちの大学受験するって言い出した時、みんなして反対したんだろ!? なのに、姉ちゃん、どうしても家出たいって言うし……別に一人暮らしなんて、大学卒業してからでも出来るのに……なんでだよ……なんでッ……俺、俺すごく……寂しかった……のに……っ』
「…………理久」
電話口から、次第に泣き出しそうな声が聞こえてきて、あかりは目を見開いた。
語尾が段々と弱々しくなるその声は、いつもは強気な弟の声ではなくて
『とにかく! 一人暮らしなんだから、もっと考えろよな! 俺、姉ちゃんが危ない目に合うとか絶対嫌だし、バイトする気でいること、父さん達にチクッとくからな!』
「え!?」
『今度帰ってきたら叱られちまえ! バーカ!』
「ちょ、ちょっと、理久!?」
そんな捨て台詞を放ったあと、一方的に電話を切られた。
あかりは、親に報告するという理久の言葉に、スマホを握りしめたまま、唖然とする。
(え? うそ……私、叱られるために、今度実家に帰るの?)
また、心配事が一つ追加されてしまった。
そう思ったあかりは、ひどく頭を抱え、深く深くため息をついたのだった。
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