第140話 情愛と幸福のノスタルジア⑭ ~笑って~
四月、桜が満開になる頃──
一ヶ月半共に過ごした、ゆりとの共同生活が終わり、俺と飛鳥の環境は、前の二人だけの生活に戻っていた。
あの日、笑顔で出て行ったゆり。だが、その後一ヶ月経っても、ゆりが我が家に顔を出すことはなく、不思議なことに、ゆりが消えた家の中は、まさに火が消えたように静かになった。
カタカタ──
深夜、寝室のベッドに飛鳥を寝かしつけたあと、俺はテーブルの上のスタンドライトの明かりを頼りに、一人もくもくと仕事をしていた。
「ふぇ……っ」
だが、背にしたベッドから飛鳥の泣き声がきこえ、俺はパソコンを打つ手を止めると、慌てて飛鳥に声をかける。
「飛鳥……」
見れば、涙を流しヒクヒクと手を震わせる飛鳥の姿が目に入り、俺はそんなわが子を宥めようと、一緒に布団に入り背中をトントンとさする。
あれから飛鳥は、また、深夜に目を覚ますようになった。俺の胸に顔を埋めて、身体を震わす飛鳥。眠りが浅いせいか、最近ぼーっとしている事も多い。
そして、俺はそんな飛鳥を見つめながら、毎晩のように、ゆりのことを思い出す。
今、どうしているんだろう?
困っていることはないだろうか?
なんで、連絡一つ、くれないのか?
ゆりがいなくなってから、飛鳥はまた少し不安定になった気がする。少しでも顔を見せてくれたら、飛鳥も安心するかもしれないのに、待てど暮らせど──ゆりは訪ねてこない。
(寝たか……)
それから暫く、背を擦りつづけていると、飛鳥がやっと眠りについた。
俺に気を使っているのか? 飛鳥はあれから、ゆりの話題はぱったり出さなくなった。
それに……
「ごめんな、あまり構ってやれなくて……」
きっと寂しい思いをさせてる。
仕事も家事もしなきゃならないから、あまり遊んであげられないし、それに最近どこか、飛鳥の笑い方が、ぎこちない気もする。
◇◇◇
「お父さん、今日も目玉焼き?」
「こら、文句言わない!」
ある日の朝──仕事に加え、飛鳥の夜泣きも相まって、俺は少しは寝不足気味でキッチンに立っていた。
もともと料理は得意ではないが、最近特に手抜きな朝食をつくることも多く、飛鳥が横で呟いた一言に、俺は欠伸をしながら反論していた。
「文句なんていってないよ。俺、お父さんの目玉焼き好きだよ。焦げてなきゃ!」
「あはは、それはすまん。ほら、飛鳥、もうできるから、お皿準備して」
「はーい」
最近は当たり前になってきた、朝の風景。
だけど……
『お兄さん、おはよう』
朝起きてキッチンにいくと、いつも聞こえてきた、ゆりの声。それが、ないのは、どこか寂しいというか、物足りなさを感じた。
なんだろう。
まるで、ポッカリ穴でも空いたような。
でも、それでも、連絡がないのは、きっと順調な証拠なのだと──
もしかしたら、もう彼氏くらい作っているかもしれないなんて考えて、無理に納得しようとした。
「いただきます」
「しっかり、食えよー」
二人きりの生活は大変だった。
だけど、飛鳥は相変わらず可愛いし、やることは増えたけど、それでも、なんとか二人楽しく過ごしていた。
いや、楽しく過ごせていると思っていた。
「なぁ飛鳥。お前もう少し、ちゃんと笑え」
「え? 笑ってるよ?」
「そうじゃないだろ、前はもっと」
「……っ」
飛鳥の笑顔をみて、無意識にでた言葉。
飛鳥は、そんな俺の言葉に一瞬ビクっと体を震わせると
「……俺の笑い方、おかしい?」
「あ、いや……」
飛鳥は、少し申し訳なさそうに、そういった。俺は、自分の言葉にあきれ返った。
そうだ。飛鳥は、モデルの仕事をする時、嫌でも笑っていなくてはならなくて、だから、その反動なのだろう。
きっと、笑うのが、癖になってる───
「いや、おかしくない、ごめん……そうじゃないんだ」
俺は飛鳥を頭をなで、懺悔する。
そうじゃない。
飛鳥を困らせたい訳じゃない。
攻めてるわけでもない。
ただ、もっと──
心から、楽しそうに笑って欲しい。
俺の前でも──
「お父さんは?」
「え?」
「お父さんも、あまり笑ってないよ。ゆりさんが出て行ってから……」
「………」
「俺と二人だけじゃ楽しくない? 俺、ちゃんと笑うから……お父さんも笑って」
「……っ」
まるで、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
あれ? 俺、笑ってなかった?
なのに、俺は、飛鳥に笑えとか……
「っ……ごめん」
その瞬間、俺は飛鳥をきつく抱きしめる。
「ごめん、ごめん、飛鳥、俺……っ」
本当に何をしてるんだろう。
そうだよな。俺が、親が笑ってないのに、子供が笑えるわけないよな。
ここ最近、楽しく笑っていられたのは、全部ゆりのおかげだったのだと、改めて実感した。
一緒にいたのは、たった一カ月半。
なのに、思った以上にゆりは、俺達にとって、とても大きな存在となっていたことに、今更ながら気づかされる。
会えない日が増えるにつれて、思いが募った。
何気ない瞬間に、いつもゆりの顔を思い出した。
ゆりが忘れていった髪留めやコーヒーカップをみるたびに、なぜか切ない気分になって…
だけど、処分しようにもできなかったのは、彼女を愛おしく思っていることに、気づいてしまったからかもしれない。
会いたい。
だけど、遅すぎたんだ。
自分のこの気持ちに気づくのに
あまりにも────遅すぎた。
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