第50話 過去と未来
◇
自室のローテーブルの上に、例の"ウサギのぬいぐるみ"を置くと、華はスマホを手に取り電話をかけ始めた。
「あ、もしもし葉月。ちょっと相談したいことがあるんだけど……」
電話の相手は、友人の
「あのさ、ぬいぐるみを供養してくれる神社とか仏閣とか、どこか知らない?」
『供養したい、ぬいぐるみ?』
「うん。子供の時に大事にしてたぬいぐるみなんだけど」
『大事にしてたなら、まだ置いとけばいいのに? 手放していいの?』
「うん……うちには、もう置いておきたくないの」
──これ以上、お兄ちゃんに、あの時のことを思い出させたくないから。
心の中だけでそう呟くと、電話口の葉月が『わかった』と明るい声を発した。
『そっか……なら、うちのお母さんが、そういうの詳しいから、今夜にでも聞いとくよ!』
「ありがとう! 助かる!」
その後、暫く雑談をし話を終えると、華は手にしたスマホを、ぬいぐるみの横に置くと、誰もいない部屋の中、華は目の前にあるぬいぐるみを真っ直ぐに見つめた。
もう十年も前のものなのに、そのぬいぐるみは、まるで時が止まったみたいに、あの日のまま、変わらない姿をしている。
「華、ぬいぐるみ、なんとかなりそう?」
すると、シンと静まり返った部屋の中に、蓮の声が響いた。
「……蓮、聞いてたんだ」
「そりゃ、あんな顔して、部屋に入っていけばな」
どうやら部屋の外で話を聞いてたらしい。
蓮は、華の部屋に入り、その斜め向かいに座ると、うつむいている華の顔を、そっと覗きこむ。
「大丈夫か?」
その言葉が、なにを気遣っているのかを理解して、華は呆然と目の前にあるぬいぐるみを見つめた。
「……ねぇ、やっぱり、あの日私がぬいぐるみを忘れてなかったら、お兄ちゃん、"あんなこと"にはならなかったよね?」
「……」
震えた声で言った華のことばに、蓮は"あの日"のことを思いだした。
──あの日、自分達は"泣いている兄"をはじめてみた。
人に弱みなんてほとんど見せず、いつも優しく笑っていた兄が、父にしがみつき、声をあげて泣く姿に、兄に起こった事の恐ろしさを垣間見た気がして、とてもとても怖くなった。
そして、それから華は、このぬいぐるみを避けるようになって、一緒には遊ばなくなった。
ひっそりとおもちゃ箱の奥にしまわれて、触れることすら、ほとんどなくなるくらいに。
だけど、それをたまたま、兄が見つけてしまった時があって、何も言わなかったけど、兄はとても悲しそうな顔をしていて
それを見た父が、きっと、そのぬいぐるみを、目の届かない所に隠したのだろう。
いつしか箱の奥に追いやられたぬいぐるみは、そのうち自分達の記憶からも消えていった。
だけど──
それでも華は、あの日ぬいぐるみを忘れてしまったことを、今でもずっと後悔してる。
「華……俺達が、その時の兄貴くらいになったときに、親父から聞いた話覚えてる?」
「……」
「あの時の犯人は、兄貴に異常なまでに執着してた。仮にお前が、あの日、ぬいぐるみを忘れなくても、また別のどこかで、兄貴は同じような目にあっていたかもしれない」
「……」
「確かにあの日、兄貴が家を出たのは、お前のぬいぐるみが原因だった。でも、それ以上に、色んな"偶然"が重なって──あの日、兄貴は助かったんだ」
もし、あの時──
隆臣さんが、喫茶店にむかっていなかったら
もし、あの時──
自分たちが、美里さんと出くわしていなかったら
もし、あの時──
逃げてきた隆臣さんを、昌樹さんが見つけていなかったら
もし、あの時──
ほんの少しでも兄貴のもとに駆けつけるのが遅かったら
兄貴はきっと──ここにはいない。
「お前の『忘れなければ』よりも、そっちの『偶然』の方がはるかに多いんだよ。だから、あの日だからこそ兄貴は救われて、今ここにいるんだと、俺は思ってる。だから、華がそれを一人で抱え込む必要はないし、兄貴だってそれは望んでない。心に傷は出来たかもしれないけど、それ以上に、いっぱい笑ってきただろ? 兄貴だって、俺達だって……」
──いっぱい泣いた。
でもそれ以上に、いっぱい笑って、いっぱい笑わせて、過去の傷も、家族の絆で埋めて乗り越えきた。だからこそ
「もう、自分を責めるな」
「……っ」
じわりと涙を浮かべると、華はその言葉に、小さく噛み締めた。
後悔は、なくならない。
あの日の出来事も、なくならない。
だけど、それでも
あの日だからこそ──その言葉に、ほんの少しだけ救われた気がしたから
「ぅ……ありがとぅ、蓮……っ」
頬を伝って涙が流れ落ちると、それは、華の手の甲にぽたぽたとシミをつくる。すると蓮は、そんな華の頬に手を触れると
「ほら泣くなって。ウサギさん心配してるぞ」
「はは、ちょっと、くすぐったい……っ」
泣き出す華の涙を拭い、茶化すように蓮がそう言えば、その後、華は涙を拭いた後、テーブルの上に置いていたウサギのぬいぐるみを、そっと手に取った。
幼い日に大切にしていた、ぬいぐるみ。楽しかった記憶だって、朧気だけどちゃんと残ってる。
だけど──
「……ごめんね、ウサギさん。ずっと暗いところに閉じ込められてて、やっと出してあげられたのに……やっぱりあなたとは、お別れしなくちゃ」
十年分の思いを込めて──華は大切にしていたぬいぐるみを、ギュッときつく抱きしめた。
ありがとう。
ありがとう。
そして──
「さようなら、ウサギさん」
中学最後の春───私は、過去にひとつだけ区切りをつけて、また未来へと進む。
お兄ちゃんが笑ってくれる。
それはきっと、色んな偶然と、色んな人たちの支えがあって、今に繋がっていて
この幸せな日常は、決して当たり前ではなく
奇跡に満ち溢れた、かけがえのない日常だということを、私たちは知っている。
だからこそ、願わずにはいられない。
どうかこの先も、誰一人、欠けることなく、この幸せが続きますようにと──
この優しい時間が
お兄ちゃんと過ごす、このかけがえのない時間が
どうかどうか、この先も
永遠に続きますように──と
◇◇◇
「飛鳥……!」
夕日が沈み始める、その街の中で、飛鳥は隆臣に突然、呼び止められた。
買い物が終わった帰宅途中、夕日が、ゆらゆらとゆれる黄昏時、二人目を合わせれば、飛鳥はふと昼間のことを思い出した。
「
「話てねーよ、あんな胸糞悪い話」
「あはは……もう、あれから10年になるんだね」
どことなく、せつなげな表情を浮かべた飛鳥は、あの日の恐怖を思い出しているのかもしれない。
決して忘れることの出来ない、幼い頃の恐怖。それは、今でも自分たちの中に、しっかりと残っていた。
「お前、帰ったんじゃなかったのか?」
「うん、帰ったよ。でも買い忘れたものがあったから、またでてきた」
ニコニコと話す飛鳥の手には、少量の荷物と花束があった。その姿を見れば、華と蓮の高校合格を素直に喜んでいるのが、よく見てとれる。
「ねぇ、信じられる? 蓮華が高校生になるなんて……」
だけど、ぽつりと呟いたその声は、どこか寂しそうにも聞こえて
「……喜ばしいことだろ」
「もちろん。幸せなことだよ、大人なるって」
そう、子供はみんな、大人になっていく。
親の手から離れて、いつか恋でもすれば、これまでとは違う道を進み始める。
だけど、それはきっと
幸せなことで──…
「そういえば、うちの大学も今日、受験の結果発表だったらしいぞ」
「え? あー、前期だっけ?」
「あぁ、大河がいってた。一年に可愛い子が入ってくればいいなーとかって」
「あはは、かわいい子かぁ」
するとふと、飛鳥は先日、迷子になっていた女のことを思い出した。
自分と同じ桜聖大を受験すると言っていた、栗色の髪の女のことを──
「そういえば……あの子、受かったのかな?」
「え? あの子?」
「うんん、こっちの話」
だが、その後、またにっこり笑うと、飛鳥は黄昏時の街を歩き始めた。
優しく風が吹き抜ければ、それは、飛鳥の髪をキラキラと揺らめかせ、その美しさを更に引きたてる。
10年前から、変わらずに美しい友人。
隆臣は、そんな飛鳥を見つめながら
「俺達も、もうすぐ三年だな」
「そうだね」
「蓮華も高校生になるし、色々変わっていくんだろうな」
「変わらないよ」
だが、隆臣の言葉を間髪入れず否定すると、飛鳥は、また隆臣を見つめた。
「変わらないよ、俺たちは。ずっとね──」
ずっとずっと、変わらない。
変えさせない、絶対に──
そんな願いを秘め、飛鳥は、また空を見上げた。
黄昏時の街には、今日も変わらず、優しい空が広がっていた。
だけど、その空の下。彼らの日常を変える人々が、少しずつ、この町に集まりつつありつつあることを、彼らは、まだ知らない。
そして、今日、飛鳥と同じ大学に合格した栗色の髪の女が、そのうちの一人だということも。
彼女との再会をきっかけに、今の日常が大きく変わってしまうということも。
この頃の飛鳥は、想像すらしていなかった。
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ここまで、お付き合い下さり、ありがとうございました。これにて、第1部完結となります。
また、現在、カクヨムコンにエントリー中です。
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