第287話 始と終のリベレーション⑫ ~亀裂~

 結婚してほどなくして、飛鳥が産まれた。


 飛鳥は、綺麗な金色の髪と青い瞳をした、笑顔がとても可愛らしい男の子だった。


 私の容姿と、侑斗の性格の良いところばかり受け付いで生まれてきたような、人を魅了する魅力に溢れた子。


 笑った顔も泣いた顔も、どんな顔も可愛ったから、飛鳥は、まさに天使のようだった。


 そして、飛鳥が生後3ヶ月を向かえた頃には、よく三人で散歩に出かけた。


 桜が咲き始めた春の日。ベビーカーを押しながら、ゆっくりゆっくり暖かな公園を一周する。


 しばらく歩いて、ベンチに腰かければ、ベビーカーの中で眠る飛鳥の頬を撫でては、癒されていた。


 ──幸せだった。


 まさに絵に描いたような"幸せな家族"で、これ以上ないくらいに、満たされていた。


「ねぇ、侑斗」


「ん?」


「私、今とても幸せ。侑斗と飛鳥がいてくれて。だから、これからも三人、仲良く暮らしていこうね」


「あぁ、そうだな。俺も、そう思うよ」


 飛鳥の寝顔を見つめながら、侑斗とそんな話をした。優しい夫と、可愛い息子にかこまれて、私は、きっと誰よりも幸せだった。


 そう、幸せだった、はずなのに──



 どうして、それが


 壊れてしまったのだろう──




 ◆◆◆



「え? お母さん達、フランスに行くの?」


 状況が変わり始めたのは、飛鳥が産まれて半年をすぎた頃。


 秋に近づいたある日、両親が日本からフランスに移住することになった。


「おじいちゃん、そんなに悪いの?」


「うん、あまり良くないみたいでね。ルイも今までワガママ言ってきたから、お義父さんの介護は自分がしたいって……私も最近は海外の方の仕事も多くて、家を空けることも多いから、ちょうどいいかもって……ただ、ミサが心配で。飛鳥もまだ小さいし、近くに私たちがいないのは、色々不安でしょ」


「…………」


 母が心配そうに眉を下げる。正直、不安が全くないわけではなかった。


 私の両親は、飛鳥をとてもとても可愛がってくれたし、時々実家に遊びに行けば、父や母が飛鳥を見てくれて、ゆっくり休む時間もあった。


 育児のことも相談できたし、料理を差し入れてくれたりとかもあったし、傍に両親がいるのは、凄く心強かった。


 だけど……


「私なら、大丈夫。侑斗、飛鳥をあやすのすごく上手だし、料理とかは出来ないけど、子育てはちゃんと手伝ってくれるし、侑斗と二人でなら何とかやっていけると思う。だから、私のことは心配しなくていいから、今はおじいちゃんの方、大事にしてあげて」


 フランスの祖父母には、よく可愛がられた。


 私は、父にそっくりだったし、フランスに旅行に行った時には、料理人だったおじいちゃんが、美味しいフランス料理を振舞ってくれて、父の料理の味は、プロであるおじいちゃん直伝なのだと感心したものだった。


 だから、正直、病気のおじいちゃんのことも、ほっとけなかった。だから私は、笑って両親を送り出すことにした。


 だけど、それからは大変だった。両親と離れて、侑斗と二人だけの育児。その上


「え? 異動?」


 それから暫くして、侑斗が別の部署に異動することになった。


「あぁ、人が少ない部署だから、今後は残業とか出張が増えるかも」


「そう……」


 その時、私は専業主婦だったし、会社の異動を断ることも出来なかったから、転勤するよりはマシかと、侑斗と二人納得した。


 だけど、それから予想以上に、侑斗の仕事は忙しくなって、あまり育児には参加できなくなった。


 前は夜の7時には帰ってきたのに、異動してからは9時とか10時になることもあって、一緒に夕飯を食べることも少なくなった。


 会話をする時間も減って、残業して疲れて帰ってきた侑斗をみて、頼るのも遠慮するようになった。


 そうするうちに、いつしか私は、一人で育児をするようになっていた。


 育児と家事、それを全て一人でこなすのは、大変だった。


 初めての育児と、変わってしまった環境に戸惑うこともあったけど、それでも家族のために必死に頑張った。


 だけど、その中で一番大変だったのが


「飛鳥、泣かないで。お母さん、ここにいるからね~」


「ひぅ、ふぇぇぇん…っ」


 飛鳥が、よく夜泣きをしたこと。


 生まれた時からだったけど、飛鳥は少しの音でも起きてしまう敏感な子だったらか、夜は一晩中抱っこしている時もあったくらい。


 それに、それまでは両親も侑斗もいてくれたから、飛鳥を預けて、少しだけ仮眠をとることも出来たけど、その頃はそんなこともできず、次第に睡眠不足になって、疲労が溜まるようになってきた。


「──ミサ!」

「え? あ、侑斗……おかえり」


 気がつけば、侑斗が仕事から帰ってきても、玄関まで、出迎えることができなくなっていた。


 それどころか


「お前、乳丸出し」


「え!? あ、そうだった。飛鳥に授乳したまま……っ」


 恥ずかしげもなく、胸元を開け広げたままソファーで寝てしまうことも度々あって、みっともないところを、よく侑斗に見られた。


 この頃は、料理も手抜きだったし、部屋の掃除もままならなかったし、化粧はおろか、スキンケアすらできなかったし、はっきりいって、一番、女を捨てている時期だったと思う。


「大丈夫か? もしかして、ずっと抱っこしてたのか?」


「うん……だって、飛鳥の布団に下ろすとすぐ泣いちゃうんだもの。抱っこしてた方が寝てくれるの」


「だからって、抱っこしたままうたた寝なんて、あぶないだろ。明日、俺休みだから、飛鳥が起きたら俺が見とくよ。寝れる時にちゃんと寝とけ」


「でも、侑斗も仕事で疲れてるでしょ? それに、来週出張もあるのに、体壊したら大変」


「そうだけど……」


 育児は大変だった。

 それでも、この頃は、まだ幸せだった。


 侑斗は優しかったし、飛鳥は可愛かったし、なにより家族が凄く愛おしかったから、多少の睡眠不足や疲労は、なんてことなかった。


 なにより、幸せを実感していたのもあって、侑斗と二人なら、乗り越えられると思っていた。



 ◆◆◆


 ──ピンポーン!


 だけど、そんなある日、私たち夫婦の間に亀裂が走る。


 そして、その原因は、何気ない日常の昼下がりに訪れた。


 ──ピンポーン! ピンポーン!


「ぅ、うぇぇぇぇん!」

「ん……誰?」


 その日は侑斗が仕事で、私は夜眠れなかった分、家で飛鳥と一緒にお昼寝をしていた。


 やっと寝かしつけて、飛鳥が少しだけ眠ったあと、いきなりインターフォンがなった。


「ひぅ、ふぇぇぇん」


(あー、やっと眠ったのに……)


 インターフォンの音で泣いてしまった飛鳥をあやしながら、私は玄関に向かった。


 そして、何度と連打するインターフォンの音に、尋ねてきた相手を確信する。


 正直、あまり気は進まなかったけど、無視する訳にもいかなくて、私は渋々、玄関の鍵を開けることにした。


 すると、そこに現れたのは


「ミサちゃん、元気~」


「……お義母さん」


 侑斗の母親の──神木 阿沙子あさこだった。


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