第442話 甘い声と一人暮らし


「はい」


 それから暫くして、あかりの声が聞こえてきた。

 

 穏やかで優しい声。その癒されるような声を聞いて、飛鳥は静かに目を閉じる。


(……どうしよう)


 かけるだけかけて、また迷ってしまったのは、華に『嫌われるよ』と言われたからかもしれない。


 自分でも、よくわかってる。


 こちらから誘っておいて、土壇場でキャンセルをするなんて、どう考えても心象が悪い。


 でも、蓮のことが心配なのも確かで──


『神木さん……ですよね?』


「…………」


 すると、何も言わない飛鳥に、今度は、あかりの方から話しかけてきた。


 すると、このまま無言を貫く訳にはいかないと、飛鳥は、意を決して言葉を発する。


「あのさ……もう準備はした?」


『はい。先ほど準備は終わりました。今日は、駅で待ち合わせでしたよね?』


「…………」


 準備は終わった──そう告げられ、飛鳥は二の句が告げなくなる。


 まだ、身支度をしていなければ良かったけど、出かける準備を終えたあととなると──


『神木さん?』


 すると、またもや黙り込む飛鳥に、あかりが首を傾げながら、問いかけた。


 なんとなく、様子がおかしいとおもったのか?

 あかりは、その後


『なにかあったんですか?』


 そう、不安げな声で聞いてきた。


「えっと……っ」


 だが、その言葉に続くことができず、飛鳥は、また黙り込む。


「………」

『………』


 そして、ひたすら長い沈黙が続く。

 それは、まるで、お互いの反応をさぐるように


『もしかして、具合が悪いとかですか?』


 すると、それからしばらくして、また、あかりの声が響いた。


 どうやら、普段とは違う飛鳥の反応に、飛鳥自身の体調が、よく良くないとおもったらしい。すると、飛鳥は


「いや……俺は大丈夫。ただ、蓮が熱を出して」


『え?』


「今日、学校、休んでるんだ、蓮。熱も、朝よりも上がってて」


 迷走する声が、ひたすら続く。


 もう高校生の弟を、ここまで心配する自分は、やはり、おかしいのだろうか?


 いつまでも家族に依存してはいけない。

 いい加減、双子離れをしないといけない。


 でなくては、華と蓮にも、うざったく思われるかもしれない。


 しかし、誰かが体調を崩すと、たちどころに不安になる。


 ほんの些細な熱や病気でも、万が一のことを考えて、心が萎縮してしまう。


 あの日の朝、ゆりさんは、いつも通り元気だった。


 でも、そのゆりさんは、あっという間に、いなくなってしまったから──


『だったら、傍にいてあげてください』


「え?」


 だが、そこにまたあかりの声が響いて、飛鳥は目を見開いた。


「傍に……?」


『はい。だって、熱があるんですよね? なら、傍にいてあげるべきです』


「でも……蓮はデートに行けって言ってて」


『なにいってるんですか。あ、もしかして、私に気を使ってるんですか? だったら、気にしなくていいです。映画なら、一人でも行けますし。それに、私、一人暮らしだからわかりますが、具合が悪い時に、家に一人でいるのって、けっこう心細いものなんですよ?』


「え?」


『病気の時は、いつも以上に寂しくなるんです。だから、今日は、蓮くんの傍にいてあげてください。神木さんがいてくれたら、きっと、安心すると思います』


 すると、まるで木漏れ日のような温かな声が、脳内に響いた。


 それは、何もかも包み込むような優しい言ノ葉で、気がつけば、迷いなんて、あっという間に、かき消されていた。


 そして、その甘い声に、飛鳥は、静かに酔いしれる。


 電話をかけて、良かったと思った。

 好きになった人が──あかりでよかったと思った。


『あ、そうだ。買い物は大丈夫ですか? 何か必要なものがあるなら買ってきますが』


 すると、あかりが更に問いかけてきて、飛鳥は、小さく笑みを浮かべた。


 蓮の傍にいさせるために、わざわざ買い出しをして、届けてくれるという。


 そして、もし一目でも会えるのなら、ここで差し入れを頼んでも良かったかもしれない。


 だけど、そんな邪な心をおちつかせながら、飛鳥は柔らかく答えた。


「いや、大丈夫だよ。必要なものは、ある程度そろってるから」


 ただ会いたいからって、嘘までついて、あかりに来てもらうのは、どうかと思った。そして、飛鳥は


「映画、一人で行くの?」


『はい。行って、入場特典を貰ってきます』


「また、日を改めてもいいと思うんだけど」


『うーん……でも、次の機会を待っていたら、特典なくなっちゃいそうですし。それに、内容を知らないと、大野さんに、本当に行ったか確認された時に困るので』


「……まぁ、そうだけど」


 どうやら、このままデートの話はなくなってしまうらしい。


 これを、蓮と華に話したら、なんと言われるだろう?


 だが、仮にデートに行ったとしても、蓮を置き去りにしていたら、気が気じゃなかった。


 それだけは、よく分かった。

 

『では、そろそろ。蓮くん、早く良くなるといいですね?』


 すると、またあかりの声が、電話先から響き、飛鳥は、素直にお礼をいう。


「うん、ありがとう」


『いいえ。それでは──お大事に』


 その後、あかりとの通話を終えると、飛鳥は、一人きりの部屋の中で、ふと昔のことを思い出した。


 まだ、自分が、高校一年生の時の話だ。


 家族に依存する自分を何とかしたくて、女の子と付き合っていたことが、数回あった。


 そして、そのうちの一人と、似たようなやり取りをしたことがあった。


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