第261話 真実と涙


 飛鳥が叫ぶと、辺りはシンと静まり返った。


 まるで時が止まったかのように、誰一人動けずにいると、その瞬間、涙目になったミサが、ガッと飛鳥の肩を掴む。


「な、んで……なんで、そんな子かばうのッ!!」


「!?」


 衝動的に肩を掴まれ、まるですがりつくように声を荒らげるミサに飛鳥は目を見張った。


 軽く心臓が震えた。


 心の奥底で、子供の頃の自分が、今にも逃げ出したいと訴えかけてくる。


 この人が癇癪を起こす度に、今のような荒んだ声をだすのが怖くて仕方なかった。


 脳裏には、部屋の隅で涙を流しながら怯えていた、あの幼い日の自分の姿が過ぎった。


 膝を抱えて、蹲って、母の機嫌が早く治るようと、ひたすら祈り、耐えていた日々。


 だけど……


「なんで、なんでそんな子ッ、飛鳥、エレナ、ダメよ、そんな女に騙されちゃダメ……! お願い、目を覚ましてッ」


「…………」


 だけど、震える心とは対照的に、酷く冷静な自分もいた。


 肩を掴む"母親"の手に、なんとも言えない感情が沸き起こる。


 この人の手は、こんなに小さかっただろうか?


 触れられる度に、その存在の"大きさ"を実感していた。


 父がいなくなって、あの家で、二人だけになって、悲しくて辛くて仕方なかった時


 それでも、この人が、頭を撫でて、抱きしめてくれれば、喜びとか安らぎとか、そんなものも一緒に感じていた。


 あの頃の、あの大きな手は


 怖くて

 温かくて


 逃げ出したくて

 離れられなくて


 絶対的だった、あの母の大きな手は


 こんなにも細く



 弱々しいものだっただろうか?




「目を覚ますのは、どっち……」


「……!」


 ボソリと呟けば、ミサが大きく目を見開いた。


「いつまで、そんなこと言ってんの? あかりは"ゆりさん"じゃない……! ゆりさんは──」


 言葉につまる。


 まだ小学二年生だったあの日、救急車の中で、息を引き取った、ゆりさんの姿を思い出した。


 だけど───


「もう死んだよ。12年も前に……っ」


 声が掠れて、目には微かに涙が浮かんだ。


 守るからって約束して、守れなかった。


 あの大切な人の、"最期の姿"を思い出して──


「あれから、何年経つと思ってんの? 俺が幾つに見える!? あんたが、"いなくなればいい"と思った相手は、もうとっくの昔に、この世にはいないんだよ!」


 言いたくなかった言葉を口にして、再び「母」を見れば、酷く困惑した表情をしていた。


「死……んだ……?」


「目覚ますのは、アンタの方だろ。あの人は何も奪ってない! 俺があの日逃げ出したのは──嫌になったんだ、何もかも! 部屋の中に閉じ込められて、やりたくないモデルの仕事をさせられて、ずっとあんな日々が続くのと思ったら耐えられなかった!」


「……」


「両親が喧嘩するのが嫌だった、幼稚園に行けないのが嫌だった、大人の機嫌うかがうのも、無理して笑うのも、全部全部、嫌だった!!」


「………」


「それで、逃げ出した俺に…ゆりさんは、声をかけてくれたんだッ……心配して追いかけてきてくれた。手を繋いで一緒に歩いてくれた。傷の手当をしてくれた。寒くないようにって上着を貸してくれた……俺の話を聞いて、父さんと話をしてくれて、俺を……俺を、救い出してくれた……そんな人を……っ」


 感情が高まり、きつく拳を握り締めれば、傷つけられた左腕がズキズキと傷んだ。


 だけど、きっとあの時のゆりさんの痛みは、こんなものではなくて──


「あの日、ゆりさんを刺したこと、なんとも思ってないかよ!? なんでまた、同じこと繰り返そうとしてんの!?」


 頼むから──


「頼むから、もう──俺から、何も奪わないで……!」


「──……ッ」


 その瞬間、辺りがすっと薄暗くなった。


 日が落ちた玄関は、妙にひんやりとした気がした。


 その光景をただただ見守ることしか出来ないあかりは、今も尚エレナを抱きしめていて、そんなあかりの腕のなかで、エレナは涙を流しながら飛鳥の話を聞いていた。


 すると、飛鳥の悲痛な声を聞いたミサが、かすかに身動いた。


 肩を掴んでいた手の力が抜け、二の腕まで滑り落ちると、そうして力なく脱力したミサに、飛鳥は再度語りかける。


「落ち着いて、ちゃんと話を聞いて……もう、俺の時みたいにエレナを苦しめないで、エレナだって、本当は──」


「何、言ってるの?」


 瞬間、ミサが絞り出すような小さな声を発した。


 信じられないとでもいうように、指先を震わせ始めたミサは、その後じわじわと飛鳥の服を掴む力を強める。


「モデルやりたくなかったなんて、何言ってるの!!!」


「……っ」


 瞬間、叫んだミサに、飛鳥はたじろいた。


 きつく服を握りしめ、荒んだ声を出すミサに、身体は無意識に萎縮する。


「……っ、」


「嘘、言わないで!! やりたくなかったなんて、そんなわけない!! あんなに…あんなに笑ってたじゃない! あんなに一生懸命だったじゃない!! やりたくないだなんて、嫌だなんて、一言も言わなかったじゃない!!あなたが────!!!」


「!?」


 その瞬間、飛鳥は瞠目する。


「……え?」


 何を言っているのか、わからなかった。


 その物言いは、まるで、自分がやりたがっていたから、モデルをさせていたかのような──


「なんで、そんな顔……するの?」


「………」


「なんで、何も言わないの……なんで──…っ」


 ただただ、戸惑いの表情を浮かべる飛鳥をみて、ミサは何かを察したのか、その後、ガクリと膝を着くと


「ふふ、あはは……あはははははは」


 まるで壊れた玩具のように、笑い始めた。



 夕暮れの玄関で、ただひたすら笑い続けるミサの姿を、三人は呆然と見つめていた。


 力なく床に座り込み、涙を流し、笑うその姿は


 あまりにも恐ろしくて

 あまりにも悲しくて


 まるで、大切な何かを壊してしまったかのような、そんな物寂しささえ感じた。




「ふふ、ははははは……」



 全ての『終わり』を告げる音




 長い長い夢から醒め


 現実を垣間見た女が





 悲しみにくれる音






 夕闇の空に響き渡る


 その子供のような声は




 まるで





 この世の全てに




『絶望』してしまったかのような





 そんな










 酷く悲しい、声だった。







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