第260話 母と息子


 一輪挿しに生けられたガーベラの花が、激しい音と共に床に落ちた。


 砕けたガラス片は、キラキラと鈍い光を発しながら床に散らばり、その破片が全て落ちきると、夕日が差し込む玄関は、シンと静まり返った。


 エレナを庇うように抱きしめていたあかり。


 それから暫くして、固く閉じていた瞳をゆっくりと開くと、今の自分の状況を確認する。


 不思議と痛みはなかった。


 ただ感覚がないだけなのか、そうも思ったが、その後じわりと伝わる体温に、あかりは目を見開く。


 エレナを抱きしめる自分を、きつく抱きよせる誰かの温もり。


 まるで、駆けつけた騎士のように、あかりとエレナを庇い、片腕で一輪挿しを受け止めた人物が誰なのか分かった瞬間、あかりは息を飲んだ。


「っ……神…」


 視界にエレナと同じ金色の髪が揺れた。


 一輪挿しを防いだ左腕からは、赤い血が滲んでいて、玄関の冷たいタイルの上にポタポタと流れ落ちた。


 苦痛の表情を浮かべていた。


 それは、腕の痛みによるものなのか

 もっと、別の痛みによるものなのか


「神木…さん…ッ」


 あかりが、そう呟いて、くしゃりと表情を歪めた。


 だが、その光景に誰よりも驚いていたのは、他でもない──ミサだった。


「…………」


 目の前には、とても整った顔立ちの青年がいた。


 同じ髪の色

 同じ瞳の色


 それは、あの日、別れた



 とそっくりな───




「……飛………鳥……?」









 第260話 母と息子











 ◆◆◆


 これ以上ないくらい大きく目を見開いて、ミサが呟いた。


 今にも消え入りそうな声。

 だがその瞳は、確かに飛鳥をとらえていた。


 心臓が早鐘のようにけたたましく動く中、飛鳥が改めてミサを見据えると、十数年ぶりに再会した『親子』は、ただ無言のまま見つめあった。


 あの日、四歳だった息子は、もう青年になっていた。


 あの日、ゆりを刺した母は、あの頃と、何も変わっていないように見えた。


「飛鳥……なの?」


 ミサが改めてその名を口にすると、飛鳥はあかりとエレナを背に隠すようにして、ゆっくりと立ち上がる。


「……そうだよ」


 認めたくない事実を、必死にかみ潰して、現実を見ろと、自身に訴えかけた。


「俺は、アンタのの──神木 飛鳥だよ」


 夕暮れの玄関にその名が響いた瞬間、ミサの目に、じわりと涙が浮かんだ。


 一目でいいから会いたいと思っていた息子が、今、目の前にいた。


 金色の髪と青い瞳。


 女の子のような、愛らしいだけだった顔つきは、数年の月日を経て、凛々しいものに変わっていた。


 だけど、それでも、確かにあの頃の面影を宿したまま、ただただ美しく成長した我が子にミサは


「飛鳥…ッ」


 小刻みに震えた指先を、ゆっくりとその頬に伸ばす。だが


 パン──!


「!?」


 瞬間、触れようとした手を容赦なく振り払われて、ミサは目を見張った。


 久しぶりに再会した息子は、今まで見たことがないような目をしていた。


 幼い頃、自分に向けられていたものとは、全く違う──鋭い視線。


「飛鳥?……どう…したの……なんで…っ」


 意味がわからず、叩かれた手に視線を落とす。


 するとその手には、わずかに赤く血がついていた。


「ッ、あ、飛鳥……血、血が…ッ」


「……ッ」


 その赤い血が誰のものか分かって、ミサが慌てて飛鳥の手を取った。


 一輪挿しが割れた拍子に傷つけてしまった左腕は、深い筋が数本出来ていて、未だ止まることなく、じわじわと溢れてくる。


「ああ、ぁ…どうしよう…っ、大変…早く、早く手当をしなきゃ…っ!!」


「…………」


 そして、自分の腕をつかみ、酷く狼狽え始めたミサを見て、飛鳥は落胆する。


 この人は、何も変わっていないのだと。


 16年経っても



 あのころのまま───…




「……いつまで、そんなこと…やってんの…ッ」


 心の底から湧き上がる感情を必死に抑えようと、歯がすり減るほど噛み締めた。


 だけど──もう限界だった。


「俺やエレナが傷つかなければ、他の人はどうなってもいいの?」


「え……?」


さえ傷つかなければ、他の誰かの大事な物は傷ついてもいいのかよ…!」


 痛いくらい拳をにぎりしめたその腕は、微かに震えていた。


 それを見れば、そこにあるのが"怒りの感情"だということが、ありありと伝わってくる。


「……飛鳥?」


「いい加減にしろよ…ッ、こいつにも家族がいるんだよ! 親もいる、姉弟もいる! 大切に思ってる人達がたくさんいる! アンタの思い込みで、勝手に傷つけていい相手じゃない!!!」


「………」


「さっきの話も、誰が何したって?」


「え?」


「誰が誑かして、誰が奪って、誰がなにを仕組んだって!?」


 次第に口調が荒々しくなる息子を、ミサはただただ見つめていた。


「ふざけんなよッ! ゆりさんは、アンタに恨まれるようなことは何もしてない! 父さんを誑かしてもいないし、なにか仕組んでたわけでもない!! あの日、俺が家から出たのは───」


 その瞬間、あの日、家から逃げ出した時のことが、フラッシュバックするように蘇ってきた。


 一人閉じ込められた部屋の中。


 手を繋いで、外を歩いていく親子の姿をみて涙した、あの日。


 壊れた家族に、もう、戻ることのない日常を実感した、あの日。


 ずっとこのまま辛い日々が続くのだろうかと、不安と絶望でいっぱいになった、あの日。



 もう──無理だと思ったんだ。



「あの日、俺が逃げだしたのは、アンタを、裏切ったのは…………全部、だ!!」


「ッ──」


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