第250話 味方と頬
「んーおわったー!」
夕方、ベッドに沿うように置かれたローテーブルの前で、あかりは仕上がったレポートを見つめ、背伸びをしていた。
大学から帰宅してから、ずっと机に向かっていた。
時計を見れば、もう午後の6時。
少しばかり薄暗くなり始めた、秋の黄昏時は、なんとも言えない寂しげな雰囲気を作り出していて、あかりは、赤とオレンジの美しいその空をみつめ、一つ息をつく。
(……もう、こんな時間。そろそろ、夕飯つくらなきゃ)
──ピロン!
するとそこに、誰かからメッセージが届いたらしい。スマホが軽やかに音を立てた。
その可愛らしい電子音に、あかりがスマホを手にとると、届いたのは桜聖市から届く"防犯メール"だった。
一人暮らしを始めた時、念のため登録しておいたそのメールには、身近に起こった事件や不審者の情報などが、定期的に届くようになっていた。
(夕方から夜にかけ、帰宅途中の学生などを狙い、ぶつかった拍子に『スマホが壊れた』などと脅し、その場で金品を要求する事案が数件発生しております。黒いキャップを被った20代~30代の男…)
届いた不審者情報に、あかりは眉を顰める。
ここ桜静市は比較的、治安の良い地域だ。だが、やはり全く犯罪が起きない訳ではなく、時折このようなメールが届く。
(……当たり屋、みたいな感じかな?)
帰宅途中の若い子を狙って脅すなんて、酷く悪質な事件だ。
そんなことを考えつつ、あかりはスマホをテーブルに置くと、その後、勉強道具一式を片付け、夕飯の準備に取りかかった。
第250話 『味方と頬』
◇◇◇
パタン──
学校から帰宅後、週末の宿題を全てすませたエレナは、水を飲むため、二階の自室から、キッチンまでおりてきた。
前に、約束を破り公園で遊んでいたところを母に見つかってから、部屋に軟禁状態にあるエレナ。
だが、学校から帰ったあと、母が仕事で帰宅するまでは、家の中を自由に動き回ることができた。
「はぁ……」
深くため息をついて、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。
電気をつけないリビングダイニングは薄暗く、頼りになる明かりは、外から差し込む夕日の色だけだった。
ちなみに、今週末は、珍しくモデルの仕事がない。
あのオーディションの件から狭山が色々と親身になってくれて、仕事も少しだけセーブしてくれるようになった。
ずっと、一人で耐えてきたけど、この街に来て、少しずつだが、良い方向に改善しつつある。
あの日、あかりお姉ちゃんが話を聞いてくれてから、世界が少しずつ変わり始めた。
飛鳥さんと出会ってからは、お母さんと向き合う決心もついた。
狭山さんだって、味方になってくれてる。
一年前とは比べ物にならないくらい、今は『助けてくれる人』がたくさんいる。
でも───
(オーディションの結果……今日、聞いてるよね、お母さん……っ)
ちびちびと水を飲みながら、エレナは表情を曇らせた。
今日、五時に仕事が終わったあと、事務所に寄ってから帰ると母は言っていた。
きっと、もう狭山さんから、オーディションの合否を聞かされているだろう。
(やっぱり、怒られるかな? 『落ちた』って聞いたら……)
手が微かに震えた。
覚悟はしてるが、やっぱり怖いものは怖い。
だけど、ほんの少しだけ、光も見えた。
『仮に合格できなかったとしても、精一杯頑張ったのなら、それでいいわ。そう簡単に芽が出る世界じゃないし、また次頑張ればいいのよ』
先日、母はそう言っていたから、もしかしたら、怒られることはないかもしれない。
───バタン!!!
「ひっ!?」
だが、その瞬間、誰もいないリビングに、突如大きな音が響きわたった。
エレナは肩を弾ませ、恐る恐る振り返る。
すると、リビングの扉の前で、母が立っているのがみえた。
明かりをつけていないせいか、母の顔を、伺いみることができない。
そのせいか、微かに心拍が早まる。
母は今、機嫌がいいだろうか?
それとも、悪いだろうか?
考えながらも、エレナはコップを手にした両手にぐっと力を込めると、いつも通り話しかけはじめた。
「お、おかえり。お母さん!」
「………」
エレナの呼びかけに、ミサはただ何も言わず、エレナの元へと歩み寄る。
スタスタと足早に──
「お、お仕事どうだった? 明日は接待とかないんだよね? なら、私もモデルの仕事ないから、明日はお母さんと一緒に──」
パシン──ッ!!
「──ッッ!?」
瞬間、静かなリビングに、けたたましく頬を打つ音が響いた。
その反動で、エレナが、その場に倒れ込めば、同時に手にしていたコップが床に落ち、パリーンと高い音を立てて辺りに散らばった。
呆然と割れたガラスの破片を見つめ、エレナはゆっくりと自分の頬に手を寄せる。
ヒリヒリと痛む頬は、焼けるように熱かった。
だが、何が起こったのか全く理解できない。
「え……ぁ……」
なに?
叩かれ……た?
頬を……?
「お……かぁ、さん……?」
身動きがとれないまま、恐る恐る母を見上げる。
今まで、どんなに怒られても、叩かれたことは、一度もなかった。
だって、母はいつも口癖のように言っていたのだ。
絶対に、怪我をしないように、と
その身体に、傷を付けないように、と
それなのに──…
「な………な、んで……っ」
声が震える。
すると、その瞬間、母の冷たい声が響いた。
「エレナ。オーディション受けなかったって、どういうこと?」
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