第251話 拒絶と決心

「オーディション受けなかったって、どういうこと?」


「……ッ」


 その問いかけに、エレナはヒュッと息を飲んだ。


(な、なんで……っ)


 なんで、お母さんが、そのこと──


「本当なの?」


「っ……ぁ……そ、れは……っ」


 顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。


 それは、絶望にも似た瞬間だった。唇を震わせながら、恐る恐る母を見上げれば、母は酷く冷たい目をして、自分を見下ろしていた。


 その表情を見れば、そこにあるのが"怒り"だけだということが、ありありと伝わってくる。


 どうしよう

 どうしよう


「エレナ」

「ッ──ごめんなさぃ!!」


 自分が何をすべきなのか、そんなことを考えるよりも先に喉をついたのは、謝罪の言葉だった。


「ごめん……なさぃ──ごめん…なさい…ごめん、なさ…ぃ……っ」


 顔は青ざめ、手が小刻みに震え始め、エレナは今にもこぼれ落ちそうな涙を必死こらえながら、ただひたすら謝り続けた。


「本当、なのね?」


 確信めいた母の言葉に、その言葉に、さらに叩かれるのではとエレナは咄嗟に身を竦めた。


 ぎゅっと目を瞑り、衝撃に備える。


 だが、思っていた衝撃は一切訪れず、エレナが恐る恐る目を開くと、ミサは膝を折り、まるで崩れ落ちるようにエレナの目の前に座り込んだ。


「? お母……っ」

「ふふ……フフフ…ッ」


 怯えるエレナをよそに、ただ呆然と俯き、床に手をついたミサは、クスクスと笑いだした。


「どうして……」


「……え?」


「私はこんなに、あなたに尽くしてるのに…っ」


 視線の先では、母の金色の髪が肩からサラリと流れ落ちた。


 リビングに差し込む日の光が柔らかく母の髪を照らすその様は、とても幻想的で美しい光景だった。


 でも……


「エレナ、あなたもなのね?」


「え?」


「あなたも……と同じなのね?」


 刹那、母の綺麗な手が、ゆっくりと伸びてきた。


 その細い指先は、エレナの髪に触れ、沿うように輪郭を撫でると、その後、首筋へと到達する。


「フフ、あはは……もうダメね……もう」




 もう、こんな世界






 ────生きていけない










 ──パンッ!!


「!?」


 だが、その瞬間、リビングに乾いた音が響いて、ミサは目を見張った。


 空中で静止した手は、ヒリヒリと小さな痛みを発して、娘に振り払われたのだと気づいた。


 静まり返ったリビングで、母娘見つめ合う。


 エレナの表情をみれば、まるでバケモノでも見るかのように、酷く怯えた目をしていた。


 自分に向けられたその瞳が信じられなくて、ミサは再びエレナに手を伸ばすが──


「──いやッ!!」


 拒絶の声が発された瞬間、伸ばした手がピタリと止まる。


 すると、エレナは這いずりまわるようにして、リビングから逃げ出した。


 ──バタン!!!


 バタバタと階段を駆け上がると、エレナは自分の部屋に入り、勢いよく扉を閉めた。


 薄暗い部屋の中、エレナはズルズルとその場にへたれこむと


「な、に……」


 声が震える。


 指先は感覚がなくなるくらい冷え切って、深いブラウンの瞳からは、大粒の涙が溢れ落ちた。


「なに、今……首に──…っ」


 なに?

 なに?


 お母さんは、今、しようとしたの?


「ぁ──っ、うぅ…」


 自分の首を掴んだ母に、漠然とした恐怖を感じた瞬間、手や肩はガクガクと震え始めた。


 涙で視界が霞む。


 そんな中、机の上に置きっぱなしだったスマホが目に止まると、エレナは弾かれたように、そのスマホを手にとった。


「ぁ……誰か…っ」


 震える手で必死にスマホを操作する。


 誰か、誰か、お願い、誰か……っ





「……助け……て────っ」











 ◆



 ◆



 ◆



「ただいまー」


 大学の講義を終え飛鳥が帰宅すれば、そこには既に双子の姿があった。


 兄より先に帰宅した双子は、リビングのソファーに座りテレビを見ていたらしい。いつも通り帰宅の挨拶をすれば、そこからは、華と蓮の明るい声が返ってきた。


「おかえり、兄貴」


「おかえり~、飛鳥兄ぃもコーヒー飲む?」


「うん。ちょうだい」


 どこがぎこちないながらも、三人はあくまでもいつも通りだった。


 いや、いつもどおりに振舞っていると言った方がいいかもしれない。


 華が明るく笑顔を向けソファーから立ち上がりると、その後パタパタと兄の横を横切り、キッチンで三人分のコーヒーを入れ始めた。


 飛鳥はそんな華を見つめながら、ダイニングテーブルの上にバッグをおくと、椅子に腰掛け小さく息をつく。


 リビングから外を見れば、黄昏時のどこか哀愁漂う空が広がっていた。


 鮮やかなオレンジから次第に赤黒く変わって行く空を見れば、もうじき日が沈むのだと実感する。


「飛鳥兄ぃ、明日はなにか予定あるの?」


「いや、特には」


「そぅ……」


 いつも通り会話を弾ませながら、華は放課後、葉月に言われた言葉を思い出した。


(……ちゃんと、仲直りしなきゃ)


 このままずっと、ぎこちないままなんて嫌だ。


 ちゃんと謝ろう。

 ちゃんと話そう。


 また、いつもの兄妹弟に戻れるように……


「はぃ、どうぞ!」


 いつも以上の笑顔を向けて、コーヒーを兄の前に差し出すと、華は自分と蓮のコーヒーも一緒にテーブルの上に置き、そのまま飛鳥の向いに腰掛けた。


 ダイニングテーブルを挟み、向かい合わせに座る兄と妹。


 その姿をみて、蓮は察するままにテレビの電源をオフにすると、ソファーから立ち上がり、何も言わず、華の隣に腰かける。


「ありがとう、華」

「「…………」」


 3人一つのテーブルにつくと、飛鳥がいつも通りニッコリ笑ってコーヒーを受け取り、双子が見つめる中、そっとそのカップに口付けた。


 もう何年と一緒に過ごしてきたからか、華は飛鳥の好みをちゃんと熟知していた。


 甘いのも普通に好きだが、コーヒーは砂糖は入れずミルクだけを入れるのだ。


 どこか優しい味わいのコーヒー。


 華は、そうして自分が入れたコーヒーを飲み、一息ついた兄を見て、決心を固める。


「……あの、飛鳥兄ぃ」


「ん?」


 静かなリビングに、兄の優しい声が響く。


 大丈夫。何も怖がることはない。


 自分達が、今思っていること、悩んでいること、知りたいこと、それを何もかも素直に打ち明けて、しっかり誤解をといた上で仲直りをしよう。


 例え、兄に自分達以外の兄妹がいたとしても、関係ない。


 例え、兄が、この先一生隠し事を続けたとしても、全て受け入れる。


 大丈夫、大丈夫。


 だって私達は、それでも"お兄ちゃん"と"兄妹弟"でいたいから──



「あの、お兄ちゃん──」



 トゥルルルルルルルルル…


「……!」


 だがその瞬間、飛鳥のスマホが、けたたましく鳴り響いた。

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