第2部・最終章 始と終のリベレーション【前編】
第236話 雨と傘
朝、ミサは一人キッチンに立っていた。
曇り空のせいか、明かりを付けないキッチンは妙に薄暗かった。
時計の音だけがコチコチと響く中、額に手を当てズキズキと痛む頭を押さえると、ミサはコップに水を注ぎ、白い錠剤を2つ、水と一緒に口の中に流し込んだ。
(頭、痛い……)
深くため息がもれる。頭痛と吐き気。その上、身体は鉛のように重く、朝から気分は最悪だった。
「お母さん?」
「……?」
すると、どうやら娘が起きてきたらしい。
呼びかけられ視線をあげると、パジャマ姿のエレナは、リビングからキッチンの中に入るなり、まっすぐミサを見上げた。
「……また、薬飲んでるの?」
そう言って、不安そうに問いかけるエレナを見れば、自分を酷く心配しているのが伝わってきた。
あれからよく秘書課の仕事を手伝わされるようになったミサは、昨日もまた接待と称して得意先の相手をさせられた。
まだ小学生の娘がいるのに、なかなか帰してはもらえず、その後帰宅出来たのは、確か夜の7時を過ぎていたと思う。
「大丈夫よ、ただの二日酔いだから」
水を飲み干し、シンクにコップを置くと、エレナに心配をかけまいと優しく笑いかけた。
昨晩から体調が優れないのは、きっとお酒を飲まされたせい。
だが、仕事のストレスからか、最近、痛み止めや頭痛薬を飲む回数が増えのも確かだった。
「お酒? なんで? お母さん、お酒弱いのに……」
「仕方ないのよ。大人になると、嫌でもつきあわなきゃならないことがでてくるの」
そう言って、エレナの頭を撫でる。
今の部署で仕事を続けていきたいなら、あまり上司に逆らうべきではないと課長にも釘を刺された。
事務の仕事は、それなりに給与もいいし、なにより残業が少なく、定時の5時にはあがれる。
それが、もし秘書課に移動なんて話にでもなったら、エレナが帰宅するまでに、家に帰れない可能性がでてくる。
しっかりしているとはいえ、まだ小学4年生の女の子。
そんな娘を、夜遅くまで、たった一人残しておきたくはないし、なにより、あの副社長の秘書として働くのは、あまり気が進まない。
「本当に、大丈夫?」
瞬間、手を掴まれると、エレナが心配そうにミサを見上げて問いかける。すると……
『母さん、大丈夫?』
その姿に、不意に幼い息子の姿が重なった。
もう何年と会っていない、もう一人の我が子。
あの頃、4歳だった息子も、今のエレナのように、よく自分を心配してくれた。
不安定で泣いてばかりいた自分を、よく慰めてくれた。
だけど───
(違う。エレナは……飛鳥とは違う……っ)
この子は、エレナだけは、絶対に私を裏切らない。
もう、あんな思いしたくない。
もう誰にも、奪われたくない。
「……ありがとう、エレナ」
そっと頬に手を滑らせて、また笑いかけた。
エレナさえいてくれたら、きっと、どんなことにも耐えられる。
だから、どうか
この子だけは──……
「ご飯から作るから、着替えてらっしゃい」
「……うん」
痛む頭に耐えながら、ミサはリビングから出ていくエレナを見送ると、再びキッチンに立ち、朝食の準備を始めた。
◆
その後、朝食をとり身支度を整えると、エレナは学校に行くため玄関の前に立った。
ドアを開けると空は曇っていて、それを見たミサが、朝の天気予報思い出し声をかける。
「エレナ、午後から雨が降るみたいだから、傘持って行きなさいね」
「あ……うん」
そう言われ、エレナは傘立てから赤い傘を一本手に取ると、その後「行ってきます」と言って、家を出ていった。
ミサは玄関先で娘を見送ると、その後扉を閉め、鍵をかけた。
すると、ふと視線を戻した先で、玄関の端にある傘立てが目に入った。
そこには数ヶ月前、黒髪の男の子がくれた黒い傘も入っていた。
ミサはその傘を手に取ると、あの雨の日を思い出す。
梅雨の時期、突然降り出した雨に困っていたところ、高校生の男の子が二人通りかかった。
二人共、人の良さそうな少年達で、軽く会話を交わしたあと、そのうちの一人が、自分に傘を差し出してくれた。
返せないからと断るミサに
『大丈夫ですよ。これ父が使ってた古い傘なんて、使い捨てでも問題ないやつですから』
そう言って、傘を持たせてくれた、その少年は、なんだかとても、侑斗に似ている気がした。
「神木………蓮」
傘の柄に書かれた名前を見つめ、復唱する。
捨てていいなんて言われたが、なぜか捨てる気にはなれなかった。
それに、他人にしては似すぎている気もして、ミサはその少年の姿に、元・夫の姿を重ね合わせた。
「
『神木』なんて、早々いる名字じゃない。
同じ名字、似た容姿。それはまるで──
「そう言えば、再婚したって言ってたわね」
漠然とそんなことを思い出して、手にした傘をきつく握りしめた。
自分と別れたあと、侑斗は再婚したらしい。
もし、あの時期に、子供が生まれていたのだとしたら……
「丁度、高校生くらいかしら、侑斗と──」
──"
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