第254話 本心とこの世の終わり

「兄貴が話してくれるまで、俺たちは絶対に、ここを通さない」


 その言葉は、酷くハッキリと頭に響いた。張り詰めた空気と、シンと静まり返ったリビング。そして


 ──全部、話して


 その途方もない問いかけに、飛鳥はただ呆然と蓮を見つめた。


「……全部って…っ」


 今、このタイミングで?

 そんな時間あるわけないと、飛鳥は鬱屈する。


 二人の言いたいことが、分からないわけではなかった。もしかしたら、いつも隠し事ばかりの兄に、嫌気がさしてきたのかもしれない。


 話してあげるべきなんだろう、本来なら──


 でも、思い出すのは、自分の幼い頃の記憶だった。


『ッ……お母…さん……ごめん、ごめんな…さい…!』


 食器が割れる音を聴きながら、幾度となく母に謝っていた。


 部屋の片隅で蹲りながら、ただただ涙を流し、母の癇癪が治まるまで耐えるしなかなった。


 エレナは今、どうしているだろう。


 泣いているかもしれない。

 怯えているかもしれない。



「今は……そんな時間ない!!」

「……っ」


 焦りからか口調が強くなる。だが、飛鳥が拒めば、それは一層二人の心を逆撫でする。


「何が起こってるのかぐらい、話してくれてもいいだろ!」


「だから、そんな余裕ないっていってる! だいたい、片手間で話せるようなことじゃ」


「じゃぁ、尚更行かせたくねーよ! それに、俺たちだって、もう子供じゃない!!」


「……っ」


「もう、昔みたいに、何も出来ない子供じゃない。ただ待ってるだけの、兄貴に守られてるだけの子供じゃない!! 兄貴が困ってたら助けてやりたい。なのに、何でいつもそうなんだよ! なんで、いつも一人でッ……俺たち、そんなに頼りない!?」


「…………」


 必死に訴える蓮のその瞳は、怒りと言うよりは、悲しみにくれていた。


 すがりつく華の手は今も震えていて、力を増すたびに、何度とすすり泣く声が聞こえた。


 きっと二人は、10年前のことを思い出しているのかもしれない。


 夕陽の沈む黄昏時──


 不安にかられながら、待ち続けたあの日のことを……


 日が暮れても帰ってこない兄を、ただひたすら探し続けた、あの時のことを──




「──ごめん……っ」


 瞬間、飛鳥は華と蓮を抱きしめた。


 頭に手を添え、ギュッときつく抱きよせれば、その成長を、より深く実感する。


「ごめん、華、蓮……分かってるよ。もう、お前達が、子供じゃないのは……っ」


 分かってる。


 もう、子供じゃないのも、ちゃんと認めなてあげなきゃいけないのも


 でも……


「でも、それでも俺は、まだお前達に、……っ」


「………!」


 その瞬間、華と蓮は大きく目を見開いた。


 それは、あまりにも予想外の言葉で


「分かってるよ。どんなに願っても、もうダメだってことはッ……お前達は、成長して、いつか大人になって、俺を……置いていく。分かってる。分かってるよ、もう──でも、それでも、大人にならないでほしいって、まだ守られる存在でいてほしいって……安全なところで傷つくことなく、ずっと、ずっと──」


「………」


「ずっと、俺の傍にいてほしい……って」


 そう言って、熱くなった瞳を、ギュッときつく閉じると、飛鳥は、この世の終わりに、最後の別れを告げるかのように、強く強く抱きしめた。


「……お兄…ちゃん…?」


 その、戸惑うような華の声に心が震えた。


 きっと、もう後戻りは出来ない。


 俺の"本心"を知って


 二人は、どう思っただろう。



 幻滅、したかな?


 こんなに家族に依存している俺を見て



 こんな、お兄ちゃん嫌だって


 離れて、いくかな?




「ごめ、ん……っ」


 認めてあげられなくて、ごめん。


 成長しようとする心を


 折るようなこと言って、ごめん。



 それでも、俺は───


 お前達を……失いたくない。


 華と蓮には絶対に


 "ゆりさん"のように、なって欲しくない。



 失うのは、一人になるのは



 ───もう





「お願いだから、お前達はここにいて。帰ったら、全部話すから……お前達が知りたがってること、全部、なにもかも……だから、今は───何も聞かず、ここで待ってて……!」


 抱きしめていた腕を緩めると、飛鳥は二人を残し、その場から立ち去っていった。


 耳元で聞こえた兄の声は、まるで泣いているかのようだった。


 抱きしめた腕には、痛いくらい力がこもっていて、大事な大事な宝物を奪われたくないと泣いている


 子供みたいだった───



「どう、しよう……私、ずっと……逆だと思ってた」


 ただ、呆然と立ち尽くす中、華がボソリと呟く。


 早く大人にならないと、お兄ちゃんは私たちから離れられない。


 ──そう思ってた。


 でも……


(私……今まで、なにを見てたの……っ)


 ずっと、一緒にいた。

 ずっと、傍で見てきた。


 それなのに、お兄ちゃんの"本心"にさえ、気づいてなかったなんて……


「っ………、」


 瞬間、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。


 自分たちが、大人になろうともがく姿を、兄はは、どんな思いで見ていたのだろう。


 いつまでも、子供扱いされて嫌だった。


 でも、それは──


『ずっと、俺の傍にいて欲しい……っ』


 それは……っ


「……ふ……ぅう…っ」


 流れた華の涙、床に落ちた瞬間、小さなシミを作った。


 嗚咽混じりに、ひくひくと泣き出した華に、蓮はかける言葉も見つからず、ただその場に立ち尽くす。


 一体、どうするのが『正解』なのだろう。


 いつか、離れていくのは、兄の方だと思ってた。だから、やっと覚悟を決めて、離れる決心をしたのに──


「お兄…ちゃん……戻ってくるよね?」


「……」


 不安げに発せられた華の言葉に、蓮は眉を顰めた。


「このままなんて、やだ……まだ、ちゃんと仲直りも出来てないのに……っ」


 本当にこのままでいいの?


 いつも、安全なところで兄を待つだけで


 もう、そんなの嫌だって、自分たちだって、家族を守れるような立派な大人になろうって


 去年のクリスマス誓ったはずだったのに……



「追い、かけるか?」

「……え?」


 だが、その瞬間、蓮が呟いた。


 何かを決意したような、そんな表情で問いた蓮に、華は目を合わせる。


「兄貴は、待ってろって言ったけど、俺はやっぱり、ただ待ってるだけなんて嫌だ。後になって、やっぱり行かせなければ良かったって、後悔するのは、絶対嫌だ」


 もう、昔みたいに後悔したくない。

 もう、これ以上


『やっぱり、あの日の私がぬいぐるみを忘れてなければ、お兄ちゃん、あんなことにはならなかったよね?』


 華に、あんな後悔を背負わせたくない。


「っ……でも…追いかけるって…どこに行ったか…」


「さっき兄貴が書いてた住所なら覚えた。華、お前は……」


「置いてくなんて言わないでよ…!」


 真っ赤に目を晴らして見つめる瞳に、蓮は思わずたじろいた。


 そうだよな。

 来るなと言っても、きっと……


「分かってるよ。俺たち、いつも一緒にだったもんな」


 ずっと一緒だったからこそ


 兄に対する思いも、よく分かってる。



「行くか、兄貴のところ──」


「うん……っ」



 もう、後悔しないように


 お兄ちゃんが、ちゃんと戻って来るように



 このまま、守られているだけなんて



 絶対に──嫌だ!!









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