第255話 選択と対峙

 その後、薄暗くなった路上を、飛鳥は急ぎ足で進んでいた。


 足取りは心なしか重く、急いでいるせいか息も上がっていた。だが、そんな中飛鳥は、走りながらも、ずっと電話をかけていた。


(ダメだ。全然、出ない……っ)


 家を出てから何度とかけるのだが、エレナは一切電話にでなかった。


 嫌な予感はピークに達し、飛鳥はスマホを手にしたまま、ただひたすらエレナの家へと突き進む。


「お兄ちゃん! どこいってたの!」


「!?」


 だが、その瞬間──路地を曲がった先で、中学生ぐらいの兄妹が、なにやら話をしているのが聞こえてきた。


「なんだよ、どうしたの?」


「どうしたじゃないよ。早く帰ってくるって言ってたのに、なかなか帰ってこないから、心配で迎えに来たの!」


 どうやら帰宅が遅い兄を、妹が探しにきたらしい。飛鳥は、その兄妹の姿を見て


(アイツら……出てきたりしないよな?)


 漠然とした不安が、脳裏に過ぎる。


 昨年のクリスマス。兄が帰宅しないのを心配して、華と蓮は二人だけで探しに来たことがあった。


 雪の降る夜の街の中をだ。


 あの時は、狭山さんが途中で保護してくれたから、なにもなかったけど……


「……さすがに」


 考えすぎだよな──と、飛鳥はまるで自分に言い聞かせるように呟いた。


 今一番、優先すべきなのは、どう考えてもエレナだ。飛鳥は、そう考えると、進む速度を更に早める。


 だが──


『お願い、行かないで…!!』


「……ッ」


 瞬間、華の言葉が過ぎって、飛鳥は再び足を止めた。


 まるで、縫い付けられたように動かなくなった身体に、飛鳥は小さな焦りを覚える。


「大丈夫……ッ」


 大丈夫。家で待ってろと言った。

 帰ったら全部話すとも伝えた。


 だから、きっと大人しく待っていてくれるはず───


 だが、そう思うのに、なぜか、不安は益々大きくなる。


「……どう、しよう…っ」


 今になって、ひどく後ろ髪を引かれて、飛鳥は手にしたスマホをきつく握りしめた。


 もう、二度と失いたくない。あの子達だけは、絶対に──そう思い続けてきた心が、エレナの元に向かうことを拒絶していた。


「ッ……」


 迷ってる暇なんてないのに。ここで選択すべきなのは、明らかにエレナの方で……


 たけど、それでも俺にとって



 一番、大切なのは──…














 第255話 選択と対峙












 ◆◆◆


 トゥルルルルル…


 その部屋の中では、ただひたすら電話の音が鳴り響いていた。


 母であるミサに奪われ、争ううちに弾き飛ばされたスマホは、その部屋の片隅で、誰に取られることなく虚しく音を出し続ける。


 エレナが、あかりに電話をかけてから数分。


 その着信が誰からなのかも分からないまま、母親に押さえつけられたエレナは、悲痛な声を発していた。


「お、母さ…、や……め…」


 虚ろな瞳をしたミサが、エレナの首を掴み、ゆっくりと締めあげる。


 涙で視界がぼやける中、母の手が震えているのに気づいたが、その力は全く緩まることなく、エレナの声や息を殺していく。


「っ、……、ぁ……」


 叫ぼうにも、もうその声は、母には届かなかった。


 鳴り響く電話の音にすら一切反応せず、ただ呆然と見おろす母の指先は、容赦なくエレナの首に食いこむ。


「…や……、っ……、」


 じわりじわりと、この世の終わりが近づいてくる。


 怖い、怖い

 やだ、死にたくない。


「お…、か…ッ」


 ピンポーン!


 瞬間──突如インターフォンが鳴り響いて、ミサの手がわずかに緩んだ。


 それは、ほんの一瞬の出来事だった。


 呼吸が楽になったその数秒のスキをついて、エレナはありったけの力を振り絞ると、馬乗りになっていた母を勢いよく押しのける。


「エレナ!!」

「痛──ッ!」


 母から逃げようと、這いずり回る。


 だが、部屋から出ようと駆け出した瞬間、ツインテールにした長い髪を容赦なく掴まれ、エレナは再び床の上へと倒れ込んだ。


「どこに……行く気?」

「ぅぅ……っ」


 痛みと恐怖に顔を歪め、エレナはミサを見あげた。


「もぅ、やだ……離し、て……ッ」


「どうして……どうして、そんな顔するの? 私は、こんなに──エレナを、愛してるのに」








 ◆


 ◆


 ◆



 ──ピンポーン!


「……はぁ、はぁ」


 その頃はあかりは、肩で息をしながら、2度目のインターフォンを鳴らしていた。


 エレナから電話を貰ったあと、あかりはすぐさま家を出て、エレナの家に向かった。


 あかりの家から5分程の近い距離にあるエレナの家は、青い屋根の西洋風の一軒家だった。

 母娘二人だけで住むには広すぎるその家は、なんだか独特の雰囲気をまとっていた。


 だが、それでもあかりは、息を整える間もなく玄関の前に立つと、ひたすらインターフォンを鳴らし続けた。


(エレナちゃん……お願い。出てきて)


 どうか無事でいて──そう、願いを込めて、何度と呼び鈴を鳴らす。


 黄昏時の空は、赤から紫色へと変わり始めていた。薄暗くなり始めた空を見れば、もうすぐ日が暮れるのだと実感する。


 ピンポーン!


 何度目かのインターフォンを鳴らした後、あかりは外から家全体を見渡した。


 エレナは一向に出てこなかった。電話だってかけるが、コール音が止む気配すらない。


(っ……どうしよう)


 ただただ、玄関の前に立ち尽くす。


 きっと、中にいるはずだ。でも、出てこないのは……なぜ?


 すると、ふと視線を落とした瞬間、玄関のドアノブが目に付いた。


 無意識に──手が伸びる。


 開いているわけがない。そう思うのに、その手はゆっくりと重い扉を掴む。


 ガチャ──


 扉を引くと、数センチだけ開いた。


(開いてる……)


 思わず、息を呑んだ。

 勝手に入るのが良くないことは重々承知だ。


 だけど──あかりは、意を決して中に入る覚悟を決めると、扉を引く手に更に力を込めた。


 ギィ……と鈍く小さな音を立てて重い扉が開かれる。念の為、玄関の扉を開け広げたまま、あかりは中に入ると、その家の中を見回した。


 中は、とても綺麗に整頓されていた。


 靴箱の上にはガーベラが生けられた一輪挿しと、花の香りのする芳香剤が飾られていた。


 傘立てには、日傘なども含めてシンプルな傘が四本。


 全く無駄のない洗練されたモデルハウスのようなその玄関から、その先を見上げると、目の前には二階へと真っ直ぐ伸びた階段があった。


 上へと続くその階段は、きっとエレナの部屋に繋がっているのだろう。


「エレナちゃん!!」


 玄関から二階、いや、家中に響き渡るような声であかりは呼びかけた。


 だが、しんと静まり返った家の中は、まるで時が止まったかのように、無音のままだった。


「エレナちゃん……っ」


 その酷く冷え切った家の中に、あかりの心拍はゆっくりと上昇する。


 だが、その時


 ──バタン!!


 大きく扉が開く音がした。


 その後に、バタバタとかけずり回るよう足音が続くと、二階の子供部屋から、エレナが飛び出してきた。


「はぁ……ッ…!」


 酷く泣き腫らした顔で、バタバタと階段を駆け下りると、エレナはあかりをみるなり、勢いよく抱きついてきた。


「ひっ……う……お姉、ちゃん……っ」


「──っ」


 抱きつき、あかりの服をギュッと握りしめるエレナ。


 すると、そのぬくもりに安心したのか腰が抜けたのか、玄関先で崩れるように座り込こんだエレナを、あかりは咄嗟に抱きしめる。


 ガチガチと歯を鳴らしながら怯えているエレナは、酷く震えていた。


「エレナちゃん……一体……っ」


 何が──


「エレナ」


「……!」


 ──瞬間、聞こえた声に、あかりは目を見開いた。


 玄関に膝をつき、震えるエレナを抱きしめたまま、あかりはゆっくりと階段の上へと視線を上げる。


「………っ」


 すると、目と目があった瞬間、まるで肉親の敵のように鋭い視線をむける女に、あかりは身をすくめた。


 それは、あの日、もう二度とエレナに付きまとうなと忠告してきた


「ミサ、さん……っ」


 ───紺野ミサだった。




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