第269話 兄と母

「……ど、どうしよう」


 キッチンのなかで、華が顔を青くして呟いた。

 手には、オレンジジュースと麦茶。


「わ、私、お茶入れるって言ったけど、あのエレナちゃんて子、なに飲むかな? オレンジジュース? 麦茶? あ、炭酸のグレープジュースもあるけど、私は小学生の時、何出されて喜んでたっけ?」


「なんでもいいよ。ていうか、全員麦茶でいい。それより、落ち着け!」


「お、落ち着けるわけないじゃん! だって、お兄ちゃんが……お兄ちゃんがいきなり、妹連れてきたんだよッ」


 落ち着けと言う蓮に、華がわなわなと手をふるわせる。


「なんで、いきなり妹なんて……それに、こんな時間につれてくるなんて、あの子の親、心配したりしないのかな?」


「ていうか、あの子の親ってことは、要するにってことだろ」


「……っ」


 瞬間、華は目を見張った。


「ぁ、そうか……そぅ、だよね?」


 兄の母親──

 聞こうとしても、ずっと兄が隠そうとしていた人。


「それに、兄貴もだけど、あのエレナちゃんて子も、首に包帯巻いてたし、兄貴が連れてこなきゃいけないような、何かがあったってことだろ。なんの理由もなく、兄貴が連れてくるとは思えないし」


「うん、そうだね……っ」


 少しだけ冷静になる。慌てて出て行った兄が、怪我をして帰ってきた。


 何もなかったはずがない。あのエレナちゃんの元に行って、きっと何かあったんだ。


 だから、今こうして、あの子を連れてきた。


「まぁ、どの道、あの子が兄貴の妹だってのは一目瞭然だし、間違いないだろ。俺たちと違って──そっくりだ」


「…………」


 俺たちと違って──その言葉に、華はキュッと唇をかみ締めた。


 本当に、あの二人はよく似ていた。


 悔しいくらいに、エレナちゃんは、兄にそっくりだ。


「今日、泊めるつもりなのかな?」


「………」


 麦茶を人数分、注ぎ終わり、少し不安そうに呟いた華を見て、蓮がその不安を和らげるように、華の手を取った。


 自分よりも少し小さい華の手を、蓮はきつくきつく握りしめる。


「華、俺はなにがあっても、お前の味方だよ」


「……」


「華が我慢する必要ない。兄貴の話を聞いて、納得がいかない時は、嫌だっていえばいい。俺だって、いきなり妹だとか言われても、そう簡単に受け入れられない。お前と一緒だ」


「……蓮」


 蓮の言葉に、じわりと胸が熱くなる。


「うん。ありがとう」


 華はそう言って、キュッと目を閉じると


「お茶、準備できたから、お兄ちゃんたち呼んできて」


「……わかった」


 そう言うと、蓮はリビングを出ていった。


 華はそのあと、リビングの隅にあるチェストの前に歩み寄ると、母である"神木ゆり"の写真の前に立つ。


「お母さん。お兄ちゃんの妹……私だけじゃなかったみたい」


 ふわりと微笑むゆりの写真を手にとって、華はぽつりぽつりと囁く。


「大丈夫だよね、私たち…」


 それは、まるで祈るように。

 華は、ゆりの写真を胸の前で抱きしめる。


「どうか、私たちのこと見守っててね……お母さん……っ」










 第269話     兄と母







 ◇◇◇


 その後、リビングには、飛鳥を初めとして、華、蓮、エレナ、隆臣の五人が一堂に会していた。


 そして、キッチン前の四人がけのダイニングテーブル。


 そのいつもの席に飛鳥が着くと、右隣にエレナが腰掛け、その向かいの席に華と蓮も腰掛けた。


 ピンと張り詰めた空気。


 その光景を見ながら、隆臣はそこから少し離れたソファーに座り、四人の様子を伺っていた。


 きっと、この場にいる誰もが、居心地が悪いと感じているのだろう。


 重くて、どんよりとした雰囲気。


 だが、そんな中、話の中心とも言える飛鳥が、やっと言葉を放つ。


「まずは、こんな時間まで連絡しないで、ゴメン」


「…………」


 全員無言のまま、飛鳥の話に耳を傾ける。


「今から、話すよ。お前達が、知りたがってたこと……でも、その前に」


「?」


「お前達が、当たり屋に遭遇したって話、詳しく聞いていい?」


((ひぃぃぃぃぃぃ!?))


 だが、その後放たれた言葉に、華と蓮は心の中で悲鳴をあげた。


(え!? なんで、兄貴そのこと知ってんの!?)


(まさか、隆臣さん!! もう、話したの!?)


 兄から突きつけられた気まづい話に、華と蓮が助けを求めるように隆臣をみやる。


 すると、隆臣もまさかここで、その話が出てくるとは夢にも思っていなかったのだろう。


(悪い、蓮華……)


 すこしバツが悪そうに、視線を逸らす。


 だが、遅かれ早かれ、明日にはバレる。

 そう確信した、華と蓮は


「あ、あの……家で待っとけって言われたけど、やっぱり心配で、財布も持たずにとびだしまして」


「その途中で、俺に男の人がぶつかってきて、その人が、その……当たり屋だったみたいで、スマホ壊れたから、お金払えって言われて…」


「それで、あの、なんだかんだ隆臣さんが助けてくれて、何とかなったというか……あの、その……ごめんなさい」


「…………」


 素直に謝る二人に、飛鳥は目を細めた。


 怖かっただろう。

 何事もなくて、よかった。本当に──


 すると飛鳥は、その後、華と蓮をまっすぐに見つめると


「謝らなくていい……」


「「え?」」


 そういった飛鳥に、華と蓮は呆気に取られた。


 てっきり、怒られるだろうと思っていた。

 それなのに──


「お兄ちゃ……」


「謝らなくていい。悪いのは、全部……俺だから」


 そういった瞬間、リビングはシンと静まり返る。


「俺が、何も言わず家を出たのが、悪い。俺が、ずっと隠し事をしてたのが悪い」


「……」


「エレナだって、本当は知らなくて良かった事を、俺が一方的に教えて、無理やり巻き込んだようなものだから、どうか、責めないでやって……悪いのは──責められなきゃいけないのは、全部、俺だから」


 呼吸すら出来なくなるような、そんな兄の声に、その場の全員が息を飲んだ。


 一気に、雰囲気の変わった飛鳥の姿に

 皆、確信する。


 ──あぁ、始まるんだ……と。


「全部、話すよ。お前達が知りたがってたこと……俺の母親がどんな人なのかも、子供の頃何があったのかも、どうしてエレナが、今ここにいるのかも。そして──ゆりさんのことも」


「え?」


 突如飛び出してきた母親の名前を聞いて、華と蓮は目を見開いた。


「昔俺が、ゆりさんと出会って、そこで何があったのか……全部、聞いて──」



 それは


 重く、辛く、悲しい話。



 この話を終えたあと



 この家族が


 どうなってしまうのか






 それは、まだ







 誰にも、分からない。








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