第270話 後悔と懺悔

 時計の針が、ゆっくりと動く。

 あれから、どのくらいの時間がたっただろう。


 飛鳥が全てを話し終えたあと、その向かいに座る華と蓮、そして、その様子を見つめる隆臣は、突きつけられた現実に言葉を失くしていた。


 飛鳥から話された、幼い頃の話。


 4歳の時、両親が離婚した話。


 母親に引き取られたあと、突然モデルの仕事をさせられるようになった話。


 顔に怪我をしたのがきっかけで、幼稚園を辞めさせられた話。


 そして、部屋に閉じ込められ、ある日、限界に達して、母親の元から逃げだし『ゆりさん』と出会った話。


「今、話した通り……ゆりさんは、俺を助けてくれた。俺を……あの辛い日々から救い出してくれた。だけど──」


 飛鳥が、声を重くし、呟く。


 ところどころ言葉を選ぶように、ゆっくりと紡がれるその声の深刻さに、真実の重みを垣間見る。


 華と蓮の母親である『神木 ゆり』

 旧姓『阿須加 ゆり』は


 その日、飛鳥と出会ったばかりに、飛鳥の母に刺され、命を奪われかけた。


 その事実に、華と蓮は酷く困惑していた。


 何も言葉にできす、息をするのさえ忘れ、ただ呆然と、飛鳥と、その隣にいるエレナを見つめる。


 エレナも、その頃の兄と同じような状況にあるのだろうか?


 時折、涙をにじませながら、キュッと唇を噛み締める姿をみて、華と蓮は、この二人の『母親』との確執に、ただただ戸惑う。


 すると、苦痛の表情を浮かべた飛鳥が、そんな双子をみつめながら、またゆっくりと話を始めた。


「俺達の母親は……人を、。そして、その相手は、お前達の母親で……俺はずっと、それを隠そうとしてた。お前達に、俺が……俺が、ゆりさんを殺そうとした女の子供だって、知られたくなかったから……っ」


 その言葉は、双子の心にも重くのしかかった。


 確かにそれは、立派な殺人未遂。


 だけど、まさか自分達の母親と、兄の母親の間に、そんな因縁があったなんて考えもしなかった。


 だが、人を殺しかけた女の子供。


 兄が、そうであることは紛れもない事実で、その真実を受け止めるのは、そう簡単なことではなかった。


「な、んで……」


「え?」


「なんで、お母さんは刺されたの? お母さん、何か悪いことしたの?」


「違う……っ」


 華が言葉を発すると、飛鳥が慌てて、その言葉を否定する。


「母さんは……ゆりさんは、何も悪くないよ。多分、父さんと一緒にいたから、浮気相手かなんかと間違えたんだと思う……今日も、あかりのことを、ゆりさんと間違えて『奪った』とか、訳分からないこと言って傷つけようとしたから」


(……あかりさん)


 その言葉に、今日、兄が向かったその場所が『母親』のところで、そこには『あかりさん』もいたのだと悟って、華は包帯が巻かれている、兄の痛々しい左腕を見つめた。


(……そっか、じゃぁ、あの怪我、あかりさんを守ろうとして)


 少しずつだが、状況が見えてきた。


 母と、とどことなく雰囲気が似ている、あかりさん。


 もし、兄の母が自分たちの母を憎んでいるのなら、あかりさんを母と勘違いして傷つけようとしても、何ら不思議はなかった。


 それに、エレナちゃんも、きっと、その母親と何かあったのだろう。


 兄の横で、不安げにスカートを握りしめるその首には包帯が巻かれていた。


 首という、急所にもなりうる場所に、巻かれた包帯を見て、不意に恐ろしい光景を想像して、兄があんなにも慌てて家を飛び出した理由を、二人は改めて理解した。


「「…………」」


 そして、数時間前の自分たちの行動をかえりみて、華と蓮は、言葉を噤んだ。


 あの時、兄を「行かせたくない」と引き止めてしまった自分たち。


 もし、兄が間に合わなければ、エレナちゃんとあかりさんは、どうなっていたのだろう?


「ごめん……」


 だが、その瞬間、また兄が小さく言葉を発した。


「ごめん、ごめん……っ」


 あまりに苦しそうに、何度と謝罪する兄。すると華と蓮は、何故か謝る兄を見て、大きく目を見開く。


「兄貴……?」


「ごめん、謝らなきゃいけないのは、それだけじゃなくて……ッ」


 すると、困惑する華と蓮を前にし、飛鳥は、ゆりが亡くなった時のことを思い出す。


 小学二年生の冬──

 学校から帰ったら、母が倒れていた。


 まだ、二歳だった華と蓮は、その母の前で、大きく声をあげて泣いていて、母を見たとき、何が起こってるのか分からなくなった。


 怖かった。

 不安だった。


 それでも、必至に救急車は呼べたけど、結局、母は、病院にはたどり着けず、救急車の中で、泣きながら息を引きとった──


 それは、いつまでも忘れられない、後悔の記憶。


 何度も何度も、悔いて

 何度も何度も、涙した


 悲しみにまみれた記憶──


「俺……ゆりさんが刺された時、もう二度とあんな目に合わせないって誓ってんだ。絶対に守るからって、母さんと約束して……だけど──」


「……」


「だけど俺……あの日、いつもより帰りが遅くなって、いつもはしない回り道をして帰って……ごめん、ごめん……ッ、俺が、もっと早く帰ってたら、後5分でも10分でも、はやく救急車を呼べていたら……母さんは、助かってたかもしれない……ッ」


 思い出すだけで、今にも涙が溢れてきそうだった。


 目頭が熱くなる中、それを必死に堪えて、飛鳥は何度と、華と蓮にむけて謝罪を繰り返した。


「ごめん、俺と出会ってさえいなければ、ゆりさんは刺されることも、あんな風に泣きながら死ぬこともなかったかもしれない……っ」


 もっと、別の生き方や幸せが

 あったかもしれない───


「ごめん、ごめん、守れなくて……お前達から……『母親』を奪って、本当にごめん……っ」


 悲痛な声がリビングに響けば、空気は更に重くなった。


 華と蓮は兄の話を聞いて、棚の上に飾られた母の写真に、無意識に視線を移した。


 母はどんな人だったのだろう。

 そう思ったことは、何度もあった。


 授業参観とか、母の日とか、誕生日とか。


 母がいないことに、少しだけ寂しい思いをした日もあった。


 特に授業参観は、双子である自分たちは、いつもクラスが違ったからか、授業参観の時は、常に『半分』だった。


 他のみんなは、始まる前から最後まで、ずっと母親か父親がいてくれるのに、自分達は、親が一人しかいないから、父がいつも二人のクラスを行ったり来たりしていて、最初から最後までいた試しがなかった。


 今はもう慣れたけど、母親に関する話だって、いつも聞くことしか出来なかった。


 特に華は、女の子だったからか


 友達が、お母さんと買い物に行ったとか

 マフラーをあんでくれたとか

 一緒にケーキを作ったとか


 そんな話を聞く度に、少しだけ、羨ましいと感じてしまうこともあった。


 だけど、そんな気持ちも、兄があっさり吹き飛ばしてくれた。


 母の代わりに、いつも兄が傍にいて、話をきいてくれたから……


 だから、母がいなくても寂しくはなかった、はずなのに──


(母親を……奪った……?)


 私たちに、お母さんがいないのは

 お兄ちゃんのせいなの?


 お母さんがなくなったのは

 お兄ちゃんが、寄り道したから?


 だから、お兄ちゃんは


 私たちに────謝っているの?



「っ……なにそれ」


 瞬間、ふつふつと訳の分からない感情が沸き起こってきて、華は勢いよく、テーブルを叩き立ち上がった。


 バン──とテーブルに響く鈍い音。


 まるで怒りを現にしたかのようなその音に、飛鳥は目を見張った。


「は、華……っ」


「なに、それ」


 そしと、華は、力強く飛鳥を見つめると──


「お母さんが、死んじゃったのは、!?」

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