【後編】
第296話 終わりと始まり
深く深呼吸をすると、飛鳥はゆっくりと顔を上げた。
目の前に佇むのは、幼い頃に住んでいた家と、とてもよく似た一軒家。
紺野ミサとエレナが暮らしていた、広すぎるくらいのこの西洋風の家は、昨日の騒動とは一変、シンと静まり返っていた。
「飛鳥さん、大丈夫?」
「…………」
家の前に立ち尽くす飛鳥を見つめ、エレナが声をかけた。
飛鳥だって、エレナと同じように部屋に閉じ込められていた時があった。だからか、その複雑な心境を読み取ってのことなのかもしれない。
「この家、そんなに似てるの?」
「まぁ……でも、だからどうってわけじゃないよ。それより、エレナこそ大丈夫? お前、昨日ここで」
昨日、エレナはここで、母親に首を絞められた。
今でもその痛々しい跡は首元に残っていて、包帯を巻いたその首を隠そうと、華が気を利かせて、ハイネックの服を引っ張り出してきた。
まだ、少し大きいが見苦しいほどではなく、むしろ、エレナほどの美少女が着れば、それすらも可愛らしく見えてしまうのだから、不思議だ。
「わ、私は、大丈夫……!」
「…………」
すると、エレナはシャキッと背を伸ばして、そういった。
本当に大丈夫かはしれないが、ここでずっと立ち往生しているわけにもいかず、飛鳥はエレナの頭をポンと撫でると、玄関先へと歩き出した。
──ガチャ。
玄関が開くと、目の前には昨日と同じ光景が、そのまま残っていた。
床には、割れた花瓶の破片としおれたガーベラの花が散乱していて、冷たいタイルの上には飛鳥の血がこびりついていた。
この残状を目にして、改めて思う。
(……二人とも、無事でよかった)
エレナとあかりが、無事でよかった──と、飛鳥は、スッと胸をなでおろした。
あかりを、勝手にゆりと間違えて、目の敵にしていたミサ。もし、あの場に自分がでていかなければ、今頃、どうなっていただろう。
「玄関、ぐちゃぐちゃだね」
「……!」
すると、再びエレナが声をあげて、また現実に引き戻された。
そうだ。今日は、やらなければならないことが山ほどある。なにより、まずは、この"血塗られた現場"を何とかしなくては!
「エレナ、俺は玄関を片付けるから、お前は、必要な荷物まとめておいで」
「う、うん」
「あ、そうだ。それと、あの人の勤め先の番号とかわかる?」
「勤め先?」
「うん。今は働ける状態じゃないし、会社に連絡しとかないとマズイだろ」
「あ、そっか。えっと、多分、お母さんのスマホか、手帳に書いてあると思う!」
するとエレナは、靴を脱ぐと、パタパタとリビングに向かった。
飛鳥も、その後に続きリビングに入ると、中はとても綺麗に整頓されていた。
まるでモデルハウスのような、リビングダイニング。だが、キッチンの側には割れたコップが一つ転がっていて、エレナが母親ともみ合ったであろう形跡が、痛々しく残っていた。
「エレナ、ガラス気をつけろよ」
「うん」
ダイニングテーブルに歩み寄るエレナを見て飛鳥が一声かければ、エレナはそのガラスを避けさつつ、ミサがいつも使っている仕事用のバッグの前にたった。
革製の黒のトートバッグ。
ビジネスシーンで使いやすいその品のあるバッグは、不相応にも床に転がったままだった。
エレナは、それを拾い上げると、両手で抱え、また飛鳥の元に戻ってきた。
「はい。お母さんの。スマホと手帳と、他にも印鑑とか保険証とかも入ってると思う」
そう言って、差し出されたバッグを見て、飛鳥は眉を顰めた。
正直、人の持ち物を勝手に漁るのは、あまり気が進まない。
だが……
(まぁ、仕方ないか……保険証は病院でも使うだろうし、エレナの分も持ち帰りたいし。それに、職場とか、家のこともあるしな)
色々と考えると頭がパンクしそうだが、飛鳥は渋々それ受け取ると、リビングのローテーブルの上にバッグを置き、中を確認する。
すると、その中には、女性らしい持ち物がたくさん入っていた。
財布やスマホはもちろんだが、手帳に化粧品にタオル、他にもマスクやペンケースなど。
そして、その中から、スマホを取り出すと、飛鳥は会社の連絡先を調べようと画面をONにする。
「……あ」
「どうしたの?」
「ロックかかってる」
だが、画面を見つめて、飛鳥が軽く納得しつつ呟いた。
そこには、"パスコードを入力"と表示されていて、四桁の暗証番号を入れるようになっていた。
「(まーそうだよな)……エレナ、パスコードわかる?」
「えー……わかんない」
スマホとにらめっこしながら、二人はうーんと考え込む。
「えーと……とりあえず、あの人の誕生日、いつ?」
「え、お母さんの? 11月4日だよ」
「11月………あ、違うや。エレナの誕生日は?」
「私は、12月2日!」
エレナの言葉に「1202」と入力する。
だが、それでもロックは解除されず、飛鳥は途方に暮れる。
(まぁ……自分や娘の誕生日を、わざわざ暗証番号にはしないよな)
情報を保護したいなら、分かりやすい番号は避けるべき。それは、もはや常識で、飛鳥はスマホは諦めるかと、ローテーブルの上に置くと、まずは危ないガラス片を片付けようと、リビングをあとにした。
何もかもが終わって、また、新たな生活が始まった。
秋も深まる10月末──
その日の朝は、いつもと同じようで、どこか違う空が広がっていた。
第296話『終わりと始まり』
◇◇◇
「あー、終わったー!」
一方、昨日の当たり屋の件で取調べを受けていた華は、警視庁の廊下で、んーと背伸びをしていた。
朝一番から、隆臣につれられて蓮と一緒に来たはいいが、それから現場検証やら、調書をとったりと思いのほか大変で、気がつけば、もうお昼前になっていた。
「結構、時間かかったね。すぐ終わるのかと思ってたのに」
「まーな。さすがに、昨日の今日で、これは疲れたな」
廊下を進みながら、華と蓮がぶつくさと愚痴を零しながら、昨日のことを振り返る。
昨日は、当たり屋の件以外にも、兄のことで色々なことがあった。
いきなり血相を変えて出ていった兄に驚いた。しかも、その兄が、怪我をして帰ってきた上に、妹まで連れてきたのだ。
そして、精神的にも肉体的にも疲れた、翌日のこの事情聴取。さすがにハードすぎた。
「隆臣!」
「あ、親父」
すると、その廊下を暫く進むと、双子と一緒に歩いていた隆臣に向けて、父親の
隆臣の父は、警視庁捜査一課の警部。その貫禄のある姿は、すぐに刑事だとわかるほどの風格がある。
「終わったのか?」
「あぁ、さっきな」
「昌樹さん、お久しぶりです!」
昌樹の登場に、華が笑顔で挨拶をすれば、その隣で、蓮も軽く会釈をする。すると昌樹は変わらない二人に、ホッと表情を和らげる。
「二人とも、昨日は大変だったみたいだな」
「あはは。でも、隆臣さんのおかげで助かりました!」
「そうか。飛鳥くんのために習い始めた空手が、ちゃんと役に立ってるんだな。よかったな、隆臣!」
「いや、一言余計なんだけど」
飛鳥のために──などという父に、隆臣がぴくりと眉を引くつかせた。確かに"きっかけ"は飛鳥だったが、別に飛鳥のためだけではないはずだ。
「でも、本当に無事で良かった。うちの家内も心配してたんだ」
「え、
「あぁ」
「そうだ。ついでに、ケーキも買って帰ろう! エレナちゃん、ケーキ食べれるかな?」
「エレナちゃん?」
瞬間、聞き覚えのない名前に、昌樹が首を傾げた。すると、それを見た華は
「実は私たち、妹ができたんです!」
「え!? 侑斗くん、4人目? やるなー」
「華、その言い方は、ちょっと勘違いするから」
47歳のバツイチ3児の子持ちに、もう一人子供が出来たのかと感心する昌樹をみて、蓮が突っ込む。
確かに兄の妹だし、今後、妹みたいに接していきたい気持ちもあるが、エレナはあくまでも居候。
「えっと、実は色々あって、兄貴の妹と暮らすことになって」
「あ、うん。飛鳥くんの……妹?」
だが、更に困惑する昌樹をみて、今度は隆臣が口を挟む。
「親父、帰ってから説明する。それより、仕事戻んなくていいのか?」
「あぁ、戻るさ。じゃぁな、華ちゃん、蓮くん! 隆臣、帰りに飯でも奢ってやれよ」
「あぁ、そのつもり」
昌樹が立ち去ると、双子と隆臣も警視庁をあとにし、その後、街の和食屋さんの中に入った。
昨晩はシチューだったからか、お昼は和食にしようという話になったからだ。
「隆臣さん、本当に奢ってもらっていいの?」
店の奥のテーブル席に着くと、隆臣の向かいに座って、蓮がそう呟く。
「あぁ、昨日ご馳走になったしな」
「私の作ったシチュー美味しかった?」
「あぁ、美味かったぞ」
「よかったな、華。一応食える料理、作れるようになって」
隆臣の言葉に、華がパッと顔を明るくすると、すかさず茶化すような蓮の言葉が聞こえて、華は不満げに眉をひそめた。
「もう! なんで、あんたは、もう少し、普通に褒められないのよ!?」
「俺は、本心を言っただけだし」
「相変わらず、可愛くない弟!」
「はは、しかし、昨日は色々あったけど、よかったな。飛鳥との関係が壊れなくて」
だが、そんないつも通りの双子の姿に、隆臣が安心したようにそう言えば、華と蓮は二人同時に顔を見合わせる。
確かに、昨日はすごく怖かった。
兄との関係が壊れてしまうんじゃないかって。
だけど、大丈夫だった。
多少、前とは変わってしまったけど、それでも"大好きな兄"との関係は、変わらないまま。
でも──
「ねぇ、隆臣さん」
「ん?」
だが、その瞬間、マジメな顔をした双子は
「隆臣さんに、ひとつ、聞きたいことがあるんだけど──」
「え?」
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