第233話 溝と修復


 リビングを離れたあと、蓮は一度自室に戻り荷物を置いた後、すぐさま華の部屋に向かった。


 コンコンと2回ノックをし、返事を待たず扉を開けると、部屋の中には、ベッドに突っ伏している華の姿があった。


(……泣いてんのかな?)


 涙目で、出ていった華。


 きっと、今見えない目元は真っ赤なのだろう。

 そう思い、蓮は華の横にあぐらをかいて座り、そっと声をかける。


「華、お前、何でそんな面倒臭いことになってんだよ」


 ここ最近、おかしいとは思っていた。

 兄とよそよそしいというか、なんというか……


 まぁ、あんなところ(兄が女の子を抱きしめた)を見てしまったのだから、気持ちは分からなくはない。


 だけど、今、華がこうなっている原因は、もっと、別のところにある気がした。


「あの人……あかりさんて、どんな人だった?」


 蓮が小さく問いかける。


 きっと、今日あったのだろう。その「倉色 あかり」さんに──


「…………」


 すると、ずっとうつ伏せていた華が、やっと顔をあげた。


 目が合うと、その瞳は案の定、真っ赤で……


 昔から泣き虫だったけど、双子だからなのか、自分は泣いている華に、酷く弱いと思った。


「あかりさん、すっごく……いい人だった……っ」


 すると、華は朝のことを思い出しながら、ぽつりぽつりと話し始めた。


 朝、スーパーで見かけたこと。

 気になって、尾行してしまったこと。

 自転車にぶつかって、袋が破れて困ったこと。


 そんな時、あかりさんが、声かけてくれたこと。


「この前のことも、お兄ちゃんに相談に乗ってもらってたんだって……大学で話さないのは、あかりさんを揉め事に巻き込まないようにするためで……別に、私たちが思ってたような不純な関係じゃ、全くなくて……むしろ、疑ってたのが申し訳なくなるくらい……優しい人だった」


 細々と紡がれた言葉は、とても弱々しかった。

 涙が流れる度に、言葉は震えていて


「だから……、お兄ちゃんが好きになっても、おかしくないなって思った」


「……」


 シーツの上に、ポタポタと涙が落ちた。

 あの時──


『好きなの? 倉色さんのこと』


 そう、確認した華。


 唐突なことで驚いたけど、きっと華にとっては、確認しなくてはならないことだったのだろう。


「だから、兄貴に、あんなこと聞いたのか?」


「うん……でも、あかりさんは、お兄ちゃんのこと『絶対に好きにならないから、安心して』って」


「………」


「なんでかな……私、あの時『嫌だ』と思ったの。お兄ちゃんのこと『取られたくない』って思ったの……だから、あかりさんから、友達だって聞いて安心したはずなのに……それなのに、もし、お兄ちゃんが、あかりさんのこと好きだったら……お兄ちゃん、フラれちゃうのかなって思ったら、なんだか凄く……胸が痛くなって」


「………」


「私、お兄ちゃんが離れていくのが嫌なのに、でも、お兄ちゃんが傷つくのも嫌で……なんかもう、心の中ぐちゃぐちゃ……っ」


 唇を噛み締めると、華はぎゅっとシーツを握りしめ、再びベッドに突っ伏した。


 兄の幸せを願う気持ちと

 兄を手離したくない気持ち


 早く大人になりたい自分と

 子供のままでいたい自分の気持ちが


 ぶつかって

 せめぎ合って

 ぐちゃぐちゃになって


 心の整理がつかないんだと思った。



 いつか来るかもしれない『未来』


 自分たちの大好きな『兄』が

 いつか、他の『誰か』のものになる


 そんな『未来』──


 出来るなら、来て欲しくないと思った。



 手を伸ばせば、必ず握り返してくれた『兄』が


 自分たちの手を振りほどいて、他の誰かの手をとるのが


 寂しくて

 悲しくて


 でも、そんなことを考えてしまうからこそ




 自分たちは、まだ『子供』なんだろう……





「……華」


 手を伸ばし、ベッドに突っ伏した華の頭を撫でると、同じ色の髪が肩をサラリと流れた。


(誰かの幸せを願うって、どうしてこんなに、難しいんだろう……)


 きっと、自分以外の誰かの幸せを願うには


 まず、自分自身が『幸せ』でなきゃダメで


 今ある自分の幸せを壊してまで


 兄の幸せを願うことが


 こんなにも、難しいことだとは思わなかった。


 でも──



「大丈夫だよ。今はぐちゃぐちゃでも、お前は兄貴の幸せ、ちゃんと願えるよ。兄貴が傷つくのが嫌だって思ってる華なら、ちゃんと応援できる」


「……っ」


 きっと華は、今、自分のことを"最低な妹"だと思っているのかもしれない。


 口では『幸せになって欲しい』なんていいながら、それを望んでないことに──


 でも、それでも華は、いつだって、家族のために一生懸命だった。


 たとえ、本心では『嫌』だとおもっていても。


 『離れたくない』と思っていても


 それでも、いつか本当に、兄貴に好きな人ができたら、きっと兄貴の幸せを"優先"できる。


 そんな気がした。


 嫌なことから目を背けてばかりの自分なんかよりも


 ずっとずっと



 兄貴のことを考えてやれるって──…




「ほら、言いたいことあるなら全部きいてやるから、もう泣くな」


 優しく撫でていた華の髪を、わしゃわしゃとかき乱す。


 すると、顔をあげた華は、痛いと言わんばかりの表情で蓮を見つめた。


「ちょっと、女の子の髪になんてことすんの」


「悪かったな。てか、兄貴もあかりさんのこと友達だって言ってただろ? 兄貴が友達だって思ってる以上、フラれることもないって」


「……そうかもしれないけど。じゃぁ、なんで、その友達を抱きしめたりするの?」


「そ、それは、ほら……突発的に可愛いと思ったとか、慰めたいと思ったとか?」


「だから、そういう気持ちになるのが、好きってことなんじゃないの?」


「わかんねーよ。てか、兄貴がフラれるとか想像つかないんだけど」


「私も想像出来ないよ! でも、あかりさん、本当に『脈なし』って感じなんだもん」


 確かに、あの兄と『友情』が成立する女の子は珍しいかもしれない。


 あれだけ整った容姿に、その上、かなりの人たらし。


 兄に優しくされたら、大抵の女の子ならコロッと落ちてしまう。


 それが、そのあかりさんは、兄と部屋で二人っきりになろうが、抱きしめられようが『絶対に好きにならない』などと断言出来るわけで、それを考えたら、どれだけ鋼の精神を持っているのだろう。


「大体、本当に好きなら、名字知らないとか、ありえないだろ?」


「でも、名前、呼び捨てにしてたし」


「なんでそんなに、兄貴があかりさんのこと好きかも、なんて思うんだよ?」


「……なんでだろう? 女の勘的な」


(ただの勘で、あんなに……)


 さすがにちょっと、兄貴が可哀想だと思った。


「まぁ、隠しごとが多い兄貴も悪いけど、今回は華も悪いよ。人の気持ち勝手に決めつけて、鬼みたいに責めて」


「鬼!?」


「あー、なんか彼氏の浮気問いただしてる、彼女みたいだった。怖ぇーし、兄貴もびっくりしてたし、ちゃんと仲直りしろよな。謝りづらいなら、俺も一緒にいてやるから」


「うん……ありがとう。あとで、ちゃんと謝る」


 目を赤く晴らした華が袖で涙を拭いながらそう言うと、蓮は少しだけ安堵の表情を浮かべた。


 人はちょっとしたことで、相手を信じられなくなることがある。


 昔、父がそう話していたことがあった。


 どんなに、仲が良くても

 どんなに、信じていても

 どんなに、愛していても


 些細な亀裂から、綻びが生じる。


 それは


 喧嘩したり、隠し事したり

 はたまた、ただの勘違いだったり


 でも、自分たちは、絶対にそうならないように


 小さな亀裂や綻びが生まれたら


 それを、繋いで縫い合わせて



 何度と結び治してきた。



『兄貴、昔から俺達に、隠し事ばかりだよね……』


 別に、家族だからって

 全て話してほしいわけじゃない。


 誰だって、隠し事の一つや二つ

 あるのは、あたり前で


 話したくないなら、話さなくてもいい。


 そう、思ってたから、今までずっと追求はしなかった。


 でも──


『飛鳥兄ぃ……私達に、なにか謝らなきゃいけないことが、あるのかな?』


 前に、兄が熱を出した時。


 自分と華に、魘されながら何度と「ごめん」と謝っていた兄の話を聞いて


 その「隠し事」が、どうしても知りたくなった。


 なんで、謝らなきゃいけないのか?


 なにを、そんなに隠そうとしているのか?


 兄が隠そうとすればするほど、それが深い『溝』に変わっていくようにも感じて、不安だったから……


「ねぇ……今は、あんなふうに言ってるけど、もし本当に、お兄ちゃんが、あかりさんのこと好きになったら、蓮はどうする?」


「……」


 すると、先程の話を蒸し返されて、蓮は口篭る。


 もし、兄が、本当にあかりさんのことを好きになったら、自分は素直に応援できるだろうか?


 そんなことが、漠然とよぎる。


「さぁな。そんなのただの勘だろ? もし、そうなったら……その時考えればいい」


 考えたくないばかりに、いつも先送りにする。


 だけど


 この時言った華の勘が




 この先『本当』のことになるなんて




 この時は、まだ知る由もなく。






 いつか来るかもしれない『未来』が






 もう、そこまで迫っていたことに気づくのは





 これより、もう少し






 先の話だった───





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