第10章 涙の向こう側
第151話 兄と妹
「ふぁ~~」
朝6時──華はベッドから起き上がると、うーんと背伸びをした。
まだ薄暗い部屋の中、華は、のそのそとベッドから出てカーテンを開ける。すると、窓の外には、昨日の夕方から降り始めた雨が、未だやむことなく降り続いていた。
「今日も、雨かぁ……」
ザーザーと響く雨音。すると、その瞬間、華は昨日の兄のことを思い出した。
昨日は、珍しく兄が、いつもより遅く帰宅した。帰ってきた時刻は、夜8時を過ぎていて、もう暗くなった頃だった。
なんでも、後輩の家に寄って本を貸してきたらしい。だが、女物の傘をさして帰ってきた兄は、いつもと同じように笑っていたのに、どこか、いつもとは、違うようにみえた。
(……後輩とか言ってたけど、アレやっぱり嘘なのかな?)
女の人のところに寄っていたのは確かだろう。しかも、兄には、子供には言えない隠し事があるらしい。
(まさか、本当に不倫とか、一夜限りだとか、危ないことしてたりしないよね?)
あの優しい兄が? あの真面目な兄が?
手にしたカーテンをぎゅっと握りしめると、華は複雑な顔をする。
そんな不純な行い、今までの兄を思い返すと、どうにも想像できなかったから──
(いやいや、ない! 不倫とか、一夜限りとか、絶対ない! だって、あのお兄ちゃんだよ!?)
だが、そう思いたいのに、もしかしたら、今まで真面目に過ごしてきた反動で、危ない恋愛に目覚めてしまったとか、そんな可能性も、なくはないわけで
(……うーん、やっぱり、ずっと私たちの面倒見て来たし、誕生日もクリスマスも家族優先だったし、頑張りすぎた反動で、つい優しい人妻とかに、フラっと……)
頭の中では、良くないことばかりが駆け巡る。
元々モテるのだから、その気になれば、相手には困らない。
それに──
《今はまだ話せないけど、いつか話せる時がきたら話すから……それまで待ってて》
と、兄は言ってた。
話せる時って、いつ?
なんで、今じゃダメなの?
やましいことなければ、話しても良くない?
「あー! でも、飛鳥兄ぃが隠し事するのは、今に始まったことじゃないしな~!」
華は、頭を抱えた。深くため息が出て、ふと窓ガラスに写った自分と目が合えば、次の瞬間、華はパンと両頬を叩く。
ダメだ、ダメだ。
陰気な気持ちは、早く切り替えよう!
早く目を覚ませとばかりに、華は部屋から出ると、洗面所に顔を洗いにいくことにした。
ラベンダー色のTシャツとショーパンツといった部屋着姿のまま、リビングの前を通り過ぎ、洗面所につくと、鏡に映る自分の姿を見て、また再び目を細めた。
何度見ても、自分は兄とは、似ても似つかない容姿をしていた。
無理もない。自分たちと兄は、母親が違う「異母兄妹弟」なのだから。
だけど、例え血が半分しか繋がっていなくても、家族としての絆は、とても強い方だと思ってる。
でも、それでも兄は、昔から隠し事ばかりだった。
ずっと一緒にいるのに。
誰よりも自分たちが、兄を一番理解できる存在でいたいのに
兄は自分の子供の頃のことも、自分の母親のことも──なにも話してくれない。
「……あれ?」
だが、その刹那、華は横にある洗濯機が、何故か動いていないことに気づいた。
いつもなら、とっくに兄が起きて、洗濯機をまわしているはずなのに?
華は、手早く顔を洗うと、洗濯機に洗剤をいれスイッチを押した後、兄を探すため、そのままリビングへとむかった。
だが、いつもなら、朝食の準備をはじめているはずのに、そのリビングに兄の姿はなく……
(……もしかして、まだ起きてないの?)
珍しいこともあるものだ。
どうやら、兄は寝坊しているらしい。
華は、これはマズイと、またリビングを出ると、廊下を進み、兄の部屋の向かった。
コンコン──!
「飛鳥兄ぃ~」
部屋のドアをノックし、返事を待つ。
だが、中はしんと静まり返ったままで、華はそっと扉をあけ中にはいると、まだ薄暗い、兄の部屋を見回した。
飛鳥の部屋は、少し前まで蓮と共同で使っていた、10帖の洋室。
壁一面にズラリと並んだ本棚に、ベッドと勉強机。窓には紺色のカーテンがかかり、床には濃いブラウンのカーペットが敷かれていた。
どこかモダンな雰囲気のその部屋は、やはり華の部屋とは違い男性らしいもので、あんな女みたいな外見をしていても、やはり中身は男なのだと、部屋に入るたび実感する。
「……飛鳥兄ぃ?」
華がベッドに視線を向けると、兄の飛鳥は未だ布団の中にいた。
仰向けで、静かに眠る兄の姿──
その傍まで歩み寄ると、華は、前かがみになり、そっと兄の顔を覗き込む。
「ん……っ、ぅ」
「?」
だが、小さく声を漏らした兄は、どこかうなされているようにも見えた。
綺麗な顔が少しだけ苦しそうに歪んでいて、華は「嫌な夢でも見ているのか」と思いつつ、兄の肩に手をかけると、優しく揺さぶり、呼びかける。
「飛鳥兄ぃ、起きて~」
「ん……ッ」
すると、兄が薄く目を開いた。呆然と見上げてくる青い瞳。それを目にし、華は続けて兄に声をかける。
「飛鳥兄ぃ、もう6時過ぎてるよ、早く起き───きゃッ!?」
だが、その瞬間、首の後ろに腕を回されたかと思えば、華の身体は、そのまま飛鳥の腕の中に引きずり込まれた。
覆いかぶさるように兄の上に倒れ込むと、華は何事かと困惑する。
「っ、ちょ! ちょっと!?」
背中に腕を回され、ぎゅっときつく抱きしめられる。とっさに逃れようと身じろくが、その兄の力は、華が思っていたよりも、ずっと強く──
(これ……もしかして)
ふわりと香るのは、どこか懐かしい兄の香り。穏やかで、暖かくて、どこか甘く優しい、兄の匂い。
だが、こころなしか少し低い兄の声と吐息が、耳元で響いた瞬間、華は顔を真っ赤にする。
(これ、あれだ! 他所の女と間違えてるパターンだ!?)
昨日の今日だ! これは、きっと他所の女と間違えて、妹をベッドに引きずり込んだ最悪パターン!
しかも、この後、女の名前とか、囁いちゃうパターンでしょ!? いやいやいや、何それ、軽く修羅場じゃん! てか、マズイ!? 他所の女と間違えてるなら、本当にマズイ!!
だって、私妹だよ!? お兄ちゃん、寝ぼけてないで起きて!! 今一番、間違っちゃいけない相手、抱きしめてるよ!?
さすがに、妹はマズい──
「華……っ」
「!?」
だが、その後、耳元で囁かれた言葉に、華は目を見開いた。
なぜなら、それは「知らない女の名」ではなく、間違いなく、自分の名前だったから
「え?……お兄……っ」
「……ごめん」
「……」
「ごめ……、ご、めん……っ、ゴメン、ごめん、華、蓮……ご……めん……っ」
それはまるで、懺悔でもするように──
幾度と繰り返される謝罪の言葉を聞いて、抵抗していた華の力は一気に抜けていく。
もう何年と、こんなにも近い距離で、顔を見たことはなかった。
だから、かもしれない。
兄の言葉や表情に、華はひどく動揺した。
なぜなら、久しぶりに至近距離で見た、その兄の瞳には
微かに"涙"が滲んでいるのが見えたから……
(お兄、ちゃん……?)
なんで?
なんで、お兄ちゃんが
謝るの───?
「───ッて、熱ッ!!?」
だが、そこに来てやっと、華は兄の身体が熱を帯びていることに気づいた。
渾身の力を込め兄から離れると、華はベッドの上に座り込んだまま兄の額に手を当てる。
「ちょっと飛鳥兄ぃ、熱あるじゃん!?」
うなされていたのは、熱があったからなのか、華は、明らかに高い兄の体温に驚きの声をあげた。
「っ……?」
すると、その華の声を聞いて、兄は先程よりもしっかりと華を見据えると、疑問まじりの声を発した。
「はな?……どう…したの…?」
「……え?」
だが、目を覚ました兄は、いたって普段通りで……
(さっきのは、ただの寝言?)
なら、あの言葉は、きっと兄の意志とは関係なく紡がれた言葉なのかもしれない。
「あ……もう、こんな時間、か……起こしに来てくれたの?」
「え? あ、うん」
「そう、ありがとう……今からご飯作るから──」
そう言って、兄は上半身を起こすと、起き上がり、ベッドから出ようとする。
「ちょっと熱あるのに、何言ってんの!?」
「え?」
「いいから、飛鳥兄ぃは寝てて!! ごはんなら、私が作るから!!」
そう言うと、華は再び兄をベッドに押し戻すと、その後、バタバタと部屋から出ていった。
(熱……?)
再びベッドに戻された飛鳥は、華の言葉を聞いて、そっと自分の額に手の甲を当てた。
確かに熱い───
(あー……そっか、俺……っ)
そのままクローゼットの方に目を向けると、飛鳥は昨夜のことを思い出す。
昨日、クローゼットの中から、自分の母親の母子手帳と写真を引っ張り出した。
少し朧気だが、それしまったあと、夜中父に電話をして、またベッドの中で暫く考えていたと思う。
だけど、きっとその後は、いつの間にか眠ってしまったのだろう。
「はぁ……っ、」
額からジワリと伝わる熱は、確かにいつもより高く、吐き出される息も、どこか熱を帯びていた。
全身が火照り、身体は鉛のように重い。
だが、多分風邪ではない。喉の痛みはなく、咳もでないのだ。
なら、この熱は──
(少し、飛ばしすぎたかも……ッ)
きっと、精神的なものなのだろう。
飛鳥はその後、深く息を吐くと
(熱だす、とか……ホント、ありえない……っ)
自分の不甲斐なさを憂い、情けないとばかりに目を閉じたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます