第409話 恋と別れのリグレット⑩ ~不幸~


 あかりが顔を上げた瞬間


「おねえちゃん、ごはん食べよう?」


 そう言って、理久りくが、ひょっこり顔を覗かせた。


 どうやら、耳鳴りのせいで、扉が開く音にすら気づかなかったらしい。


 理久は、いつからいたのだろう?


 ただ涙目のままみつめていると、理久は、あかりの服をひっぱり


「起きて!」


 そう言って、無理やり起こそうとしてきた。

 だけど、あかりは


「ごめん、理久……ごはん、食べたくない……っ」


 あの光景を見てから、食事が喉を通らくなった。


 赤く染まった浴槽と、力なくしなだれたあや姉の姿が、目に焼き付いて離れない。


 血生臭い現場。打ち付けるシャワーの音。


 それを思い出す度に、吐き気がせりあがってきて、まともに食事なんて出来る状態じゃなかった。


 でも、理久は……


「やだ! ごはん、一緒に食べるの!」


「……っ」


 そう言って、布団を引っ張り、イヤイヤとわがままを言って、あかりをこまらせた。


 理久が布団を引っ張れば、そのせいで、中に外気が入り、あかりは、軽く身震いをする。


 しかも、理久の甲高い声は、やたらと頭に響く。


 耳の痛みに、耳鳴りに頭痛。その上、子供の声が入り交じって、あかりは耐えきれず、理久から布団を奪いとると、頭からすっぽり被って、バリケードを築いた。


 ──うるさい。


 口にはせずとも、弟を完全に拒絶する。

 すると、それから暫くして


「ぅ……うぇぇぇん」


 と、弟の泣き声が聞こえてきた。布団の中にいるせいか、どこか遠くに聞こえる理久の声。


 でも、こんな時まで、理久の相手なんてしたくなかった。


 お母さんたちは、何してるの?

 早く連れて行ってほしい。


 もう、嫌だ。

 うるさい。痛い。苦しい。辛い。


 悲しくて、 悲しくて、もう、なにもかもが嫌になってきた。


 なんで?

 なんで私は、こんなに──…っ


「おねぇちゃん…っ…ごはんたべよう。じゃなきゃ…しんじゃうよ……っ」


「……っ」


 だけど、真っ暗闇な布団の中で、また理久の声が聞こえた瞬間、あかりの目には、また涙がにじんできた。


 理久は、死を理解してるんだろうか?


 あや姉と、もう二度と会えないことを理解してるんだろうか?


(ッ……私……)


 凄く、心配してる。

 理久が、お姉ちゃんまで死なないでって叫んでる。


 そう思った瞬間、馬鹿なことを考えそうになっていた自分に気づいた。


 私は今、どうして私は、こんなになんだろう──そう思った。


 でも私は、不幸だった?


 泣きじゃくる理久の声を聞きながら、これまでを振り返る。


 片耳が聞こえないと気づいたのは、今の理久と同じくらいの頃、私の祖母が気づいたのが始まりだった。


『あかりは、ちゃんと聞こえてるかい?』


 そう言って、私の左右の耳の傍で、指をスルスルと擦り合わせた祖母は『聞こえたら、聞こえたといいなさいね』と、私の耳の聞こえを確かめはじめた。


 初めは、左耳を。そして、次に右耳を。


 すると私は、左耳の方は『聞こえる』と返したが、右耳の方は、ずっと黙ったままだった。


 自分の娘(彩音)が、そうだったから、気づいたのかもしれない。


 祖母は、片方だけ聞こえないと分かった私を抱きしめて


『ごめんねぇ、私のせいだねぇ……っ』


 そう言って、謝った。


 祖母は、私やあや姉と同じように、だった。


 娘の時も、ショックだったらしいが、それが孫にまで遺伝して、祖母は『申し訳ない』と何度も謝った。


 でも、私は、それが祖母のせいだとは思わなかった。


 だって、私は、祖母が大好きだったし、普通に会話もできるし、普通にいきていける。


 そして、この頃の私にとって『片方しか聞こえない世界』は、でもあったから。


 でも、私の母は、治せるなら、治してあげたかったらしい。その後は、何度も耳鼻科に連れていかれた。


 私の難聴は、産まれながらの先天的なものなのか、産まれてからの後天的なものか、はっきりとは分からなかった。


 幼い日に高熱を出し、寝込んだことがあるけど、その際に、耳の神経をやられたのかもしれない。そうとも言われた。


 そして──治る確率は、1%もない。


 そう、はっきりと医師に告げられたのは、幼いながらも、よく覚えている。


 ついでに、補聴器すら無意味だと言われ、母は、その1%にかけてみるかと聞いてきたけど、私は


『片っぽ、聞こえてるから、大丈夫だよ!』


 そう言って、笑顔で返した。


 本当に大丈夫だと思った。

 だけど、成長するにつれて、不便に感じることも少なからずあった。


 片方しか聞こえない世界は、人との間に、一枚壁があるような感じで、なによりも苦労したのは、人とのコミュニケーションが、上手くいかないこと。


 聞こえないせいで『無視された』と言われたこともあったし、先生の話を聴き逃したせいで、どこに移動すればいいのか、何をすればいいのか、よく分からないことも、よくあった。


 普通に会話ができるため、聞こえると思われる一側性難聴という障碍は、なによりも誤解をうけやすかった。


 そのせいで、辛い思いをしたこともあった。


 でも、それでも私は──幸せだった。


 昨日、泣き崩れたあとも、母は、何度と『あかりは悪くない』と慰めてくれた。


 『あれは、仕方なかったんだ』『だから、あなたが気に病む必要はないはないのよ』と、私の後悔を癒そうとしてくれた。


 父だって、日頃は、滅多に2階まで上がってこないのに、心配で何度も様子を見に来た。


 友人の一織ちゃんは、あや姉がなくなったことと、受験に行けなくなったことを心配して、何度も、LIMEを送って来てくれた。


 理久だって、今こうして、傍に寄り添って、死なないでと言ってくれる。


 私は、恵まれてる、

 家族にも、友人にも……


 優しくて温かい人達が、傍にいてくれる。

 支えてくれる。


 だから、私は──幸せだった。




 障碍があっても、決して





 『不幸』ではなかった。







「っ……ごめんね、りく……っ」


 布団から顔を出すと、泣いている理久の頬に手をのばした。ふっくらとした頬に触れれば、理久の涙が指先に触れた。


 みんな、心配してる。

 私のことを。それなのに……


「ごめんね……っ」


 愛されてることを、不幸ではなかったことを思い出した瞬間、また涙が溢れてきた。


 目標だった、あや姉がいなくなって、凄く怖くなった。


 あや姉ですら自殺してしまうほど、この世界は障碍者に厳しいのかと。


 そう思ったら、この先、どうやって生きていけばいいか、分からなくなった。


 人は、なんのために生きるの?


 ある人は『幸せになるため』といった。

 また、ある人は『夢を叶えるため』と言った。


 でも、そんな立派な目標なんて、なくてない。


 私はただ──生きたい。


 もうこれ以上、障碍のことで、悲しい思いをさせないように──…


「大丈夫だよ、理久……私は、死んだりしないから……っ」


 あや姉みたいに、いなくなったりしない。

 だから──

 

「理久……泣かないで……っ」


 そう、言いつつも、二人で暫く泣いていた。


 大好きな、あや姉の死を、二人で一緒に悲しんだ。



 つもる雪は、まだやまない。


 切なく、静かに


 ただ、ひたすら、降り続くだけだった──…



 




*あとがき*

https://kakuyomu.jp/works/16816927861981951061/episodes/16816927862704851011

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