第201話 娘と息子


「土曜日は、相澤社長を接待を行う。紺野、お前は、その相澤社長、直々のご指名らしい」


「……っ」


 まるで、逃げ道を塞がれたような感じがした。


 ご指名ということは、明らかに他の人間ではダメだということだろう。


「社長が紺野に出勤させろと煩くてな。まだ小学生の娘もいるから厳しいとは伝えたんだが、相澤社長の機嫌は、どうしても損ねたくないらしい」


「…………」


 前に相澤社長にあった際、ミサはあくまでも秘書と名乗ったが、それがいけなかったのか?


 元々、事務の人間だとは思われていないらしい。


 それでも、秘書が一人来なかったくらいで、腹をたてる人ではないと思うが、取引相手の社長の機嫌を損ねたくないという上役の気持ちも分からなくはなかった。


「それに、副社長から推薦された秘書課行きの話、断ったらしいな」


「……!」


 その突拍子もない話に、ミサは眉を顰めた。


 確かに断った。


 だが、あんなセクハラまでされたのだ。断ったことに後悔はない。


「それと今回のことと、なんの関係が?」


「いや、紺野は悪くないし、別に責めてるわけじゃないんだ。ただ、お前は、ただでさえ目立つ。あまり上に逆らってばかりだと、この先働きづらくなると思ってな。強制的に、他の部署に移動させられたら、俺もかばい切れなくなる」


「……」


 この様子だと、何度か人事異動の話が来たのかもしれない。


 それを課長が、庇ってくれていたのか?

 課長は、神妙な面持ちでミサを見つめた。


 つまり、このまま事務として続けたいなら、下手に逆らうなと言うことだろう。


 ミサはその後、諦めたようにため息をつくと、重々しく返事を返した。


「……少しだけ、考えさせてください」






 ◇


 ◇


 ◇




 その日、モデル事務所では、週末のオーディションに備えてレッスンが行われていた。


 ウォーキングや目線の確認をし、全て完璧な状態に仕上げる。これは、オーディション前の最終確認も兼ねていた。


 そして、それには、エレナも参加していた。


 今回のオーディションに参加するモデルは、この事務所から14名。


 みんな、見た目もスタイルもいい、モデル志望の卵ばかりだ。


 だが、ほかの子達が、しっかりとレッスンを受ける中、エレナだけは少し浮かない顔をしていた。


「エレナちゃん」


「狭山さん……」


 レッスンの休憩中、エレナのことが気にかかったのか、長椅子に腰掛けていたエレナに、狭山が声をかけた。


「やっぱり、調子悪いんじゃない?」


 エレナは、夏休みあたりから、どこか上の空なことが多い。


 笑い方もぎこちないし、動きにもキレがない。


 だが、狭山が話を聞いても、その原因となるものは分からず、結局お手上げ状態だった。


「大丈夫です……すみません。上手くできなくて」


 そして、できないことで、余計にメンタルをやられているようだった。


 狭山は、エレナの前にしゃがみこむと、エレナを見上げ、優しく語りかけた。


「エレナちゃんはさ。モデルの仕事、好き?」


「……」


「まだ子供だけど、モデルとして、この先やっていきたいなら、たとえ子供でもプロとしての意識をもたなきゃいけない。どんなに辛くても、嫌なことがあっても、衣装を引き立てる最も適した"素材"になるために、最高の表情を作ってステージに立たないといけない。モデルってのは、そう言う仕事だよ」


「……」


「華やかだけど決して楽な世界じゃないし、本当になりたいと思う子ですら、なれるのは一握り。エレナちゃんは、この先、モデルとしてやっていきたい?」


「…………」


 ただ無表情のまま、エレナは、狭山の話に耳を傾けた。


 モデルとして、やっていきたいか?


 その答えを、すんなり言葉にできない時点で、自分に迷いがあるのは明らかだった。


 今、自分がモデルの仕事をしているのは、ほかの誰でもない「母」のためなのだと。


 怒られるのが怖いから、今こうして、モデルをしているのだと……



「私は……モデルになりたいです」



 だけど、結局また嘘の言葉を並べて、自分を追いつめる。


 嫌だなんて言えない。


 言ったら、もっと怒られるかもしれない。


 言うのが怖い。


 でも……



(でももし……本番、笑えなかったら……っ)



 最近どうしても、上手く笑えない。


 笑い方がわからない。


 笑ってるつもりなのに、笑ってる顔じゃなくて、こんな状態で、オーディションに出ても受かる自信なんてなかった。


 もし、落ちたらどうなるんだろう。


 そして、その不安がまた、エレナの心に深く棘を刺した。



 ──ヴーヴー!!


「!」


 だが、その瞬間、狭山のポケットの中のスマホが、ブルブルと震えた。


 レッスン中で、バイブレーションにしていたスマホ。狭山が、その電話に出ると、着信相手の名前を聞いて、エレナは息を飲む。


「あ、紺野さん……どうしました?」


「……っ」


 その電話の相手が、母である『紺野 ミサ』だと分かった瞬間、エレナは、身をすくめ、顔を青くしたまま、その会話に耳をすませた。


「お疲れ様です……はい、土曜日……え? 仕事ですか? はい、あーそうなんですね?……大丈夫ですよ。直接、現地に向かえない子は、事務所に集まって、みんなまとめて連れていきますので……はい。はい。わかりました。じゃぁ、オーディション当日も、また俺が自宅に迎えに伺いますので、はい…」


「?」


 相手が母親なのは分かったが、なんの話が分からずエレナは首を傾げた。


 すると、そのあと少しだけ雑談したあと、スマホを切った狭山は、先の要件をエレナに話し始めた。


「エレナちゃん、ミサさん。土曜日、急に仕事にでないといけなくなったんだって……」


「え?」


「だから、オーディションには一緒に行けないみたいだから、当日はまた俺が迎えにいくから、そのつもりでいてね?」


「は……はい…っ」


 震えた声で返事をしたあと、エレナは自身の手をギュッと握りしめた。


(……お母さん……こないんだ……っ)





 ◇


 ◇


 ◇




「はい。では、よろしくお願いします」


 狭山との電話を切った後、ミサは、人通りのない廊下の隅で深くため息をついた。


 オーディションの件は、なんとかなった。

 これで土曜日は、出社できる。


 けど──



《可哀想ね、ミサちゃん──綺麗なあなたを、利用しようとする人は、たくさんいるのよ?》



 その瞬間、笑いながら言われた言葉が、脳裏をかすめた。


 自分が苦手な女の声。

 嘲笑うように発せられた不快な声。


 本当は、認めたくはなかった。そんな人ばかりではないと、信じたかった。


 だけど、今じゃその言葉が……やけに深く、胸に突き刺さる。



「確かに……その通りね」


 まさかこの年になっても、変わらないなんて思わなかった。見た目がいいばかりに、いろんな奴が、利用しようと寄ってくる。


 すりよる男は、内面なんて全く見てなくて、ただ、隣に置いて見せびらかしたいだけ。


 仲良くなろうと近づく女は、裏では嫉妬や怒りを隠していて、どいつもこいつも、信用なんて全くできない。


 今、自分が信用できるのは「最愛の娘エレナ」だけ──


 エレナだけは……あの子だけは、絶対に私を裏切らない。あの子さえいてくれたら、もう、何も望まない。


 だから──…



(今度こそ、私が……)



 あの子を、守ってあげなくちゃ







 ならないように───…



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