第292話 始と終のリベレーション⑰ ~偏愛~


 侑斗に、疑いを持つようになってからは、小さな不満もぶつけ合うようになった。


 飛鳥の前では、なんとか仲の良い夫婦でいられたけど、お互いに、仕事や育児のストレスが溜まっていたのもあってか、二人きりの時は、よく、つまらないことで喧嘩をしていた。


 特に、女性関係のことに関しては、すごく敏感になっていて、飲み会で帰りが遅くなったり、メールの返事がない時は、いつも以上に言葉がきつくなる。


「浮気してたら、許さないから!」


「だから、仕事だっていってるだろ!」


 きっと浮気なんてしてなかった。だけど、その頃の私には、侑斗が全てだったから、彼が離れていってしまうのが嫌だった。


 やっと手にいれた幸せが、壊れてしまうのが怖かった。


 そして、その束縛は日増しにきつくなり、日に何度もメールや電話をして、侑斗を困らせた。


 そして、小さな亀裂が深い溝にかわる頃には、侑斗はあまり家によりつかなくなって、そんな冷えきった夫婦関係の果てに、私の"歪んだ愛"の対象が、全て息子に向かうのは当然のことだった。


 そしてそれは、飛鳥が3歳になったころ、ほんの些細なきっかけだった。


「おかーさん、これは~」


 飛鳥は本が好きで、幼いときから、毎日のように本を読み聞かせてあげていた。


 そして、その本は、警察官とか先生とか、たくさんの職種が可愛いイラストと一緒に描かれている、可愛らしい絵本だった。


「これはお医者さん、これはおまわりさん、こっちはお花屋さん!」


「いっぱ~い」


「そうね。いっぱいあるわね。飛鳥は、大きくなったら何になりたいの?」


「う~ん、まだわかんない。おかあさんは?」


「え?」


「おかあさんは、なにになりたいの?」


 それは、突然のことだった。

 あまりにも無邪気に、私に夢を問う飛鳥に


「そうね。お母さんは……モデルに、なりたかったかな?」


 そういった瞬間、無理やり絶たれた『夢』を思いだした。


 ただ、がむしゃらに頑張っていた、あの頃。


 もう一度、あの時みたいに『夢』をみれたらいいのに。だけど、私の身体は、もうモデルにはなれない体になっていて、とても虚しい気持ちになった。


「そっか、じゃぁ、俺もになる!」


「え?」


 だけど、その瞬間、私は目を見開いた。


(飛鳥、モデルに……なりたいの?)


 侑斗と不仲になって、疲れきった生活を繰り返すうちに、心の中が空っぽになりかけていた。


 その頃の私にとって、生き甲斐と言えるものは『飛鳥』だけだった。


 だから、何でもいいから、夢中になれるものが欲しかったのかもしれない。


 飛鳥のその言葉が、私の心に、再び火をつけていくようにも感じた。


 なにより、嬉しかった。

 飛鳥が、そう言ってくれた事が……


「そうね。飛鳥なら、なれるわ」


 飛鳥なら、きっと叶えられる。


 私が夢見ていた。たくさんの人を幸せにできるような、そんな素敵なモデルに──




 ◆◆◆



 そして、それから暫くしたのち、私は、おかしな方向へと加速していく。


「おかーさん! どこいくの?」


「オーディション、うけにいくのよ」


「おーでぃしょん? なにそれ? おれ、いきたくな」


「どうして? だって、飛鳥は、?」


 息子が、母親を喜ばせようといっただけの、その何気ない言葉を、自分の都合のようにすり替えた。


「なんで、お母さんのいうことが聞けないの!!」


 そして、それは次第にエスカレートして、飛鳥に対して厳しく接することも増えていった。


 意地に、なっていたのかもしれない。


 これは飛鳥のためなんだと。私がこの子を、しっかり導いてあげなきゃいけないんだと。


 そして、それは、あの日を境に、より厳しいものへと変わっていった。



 ◆◆◆


「申し訳ありませんでした!」


 飛鳥を幼稚園に迎えに行った時、先生から、突然頭を下げられた。


「あの、ケンカになった時に、頬を少しひっかいたみたいで、相手の親御さんにも、さっき連絡して……っ」


 見れば、飛鳥の頬にはガーゼが貼られていて、私はそれを見て愕然とした。


「……ケンカの原因は、何でしょうか?」


「髪の色を、からかわれたみたいで……あ、でも、相手の男の子にも話をして、ちゃんと仲直り──」


 先生の話だと、飛鳥が女の子と話していたら、急に男の子が、髪を引っ張ってきたらしい。


 そして、その子と喧嘩になった飛鳥は、頬に引っ掻かれ、擦り傷を作っていた。


 その瞬間、不意に昔のことを思いだした。


 先輩たちに、詰め寄られて、ガラスの破片で怪我をした、あの時のことを───


「もう結構です」


「え?」


「この子の髪は地毛です。それをからかうような子が通う幼稚園には、これ以上あづけられませんから、今日限りで、やめさせていただきます」


 ──怖かった。


 飛鳥も、私のようになったら……そう思ったら、怖くて仕方なかった。


 この子は、絶対に私みたいになっちゃダメ。私みたいに、傷つけさせたくない。大事な夢を諦めさせたくない。


 そう思うと、どんなことをしてでも、飛鳥を守りたいと思った。




 ◆◆◆


「おかあさん、あけてッ!」


 その後私は、飛鳥を部屋に閉じ込めた。


 飛鳥は何度と泣きながら叫んできたけど、そんな飛鳥の声を、全て聞こえないふりをしてやり過ごした。


 もう、嫌だった。

 もう、失いたくなかった。


 ここにいれば、安全。

 ここにいれば、飛鳥は傷つかない。


 ここに、閉じ込めてさえいたら、飛鳥は、いつまでも私のそばにいてくれる。


 そして、ずっとずっと、変わらずに綺麗なまま──


「お母さんね。飛鳥の


「え?」


 幼い頃に母が言っていた言葉。それを何度と囁きかけながら、飛鳥を抱きしめた。


 どうか、どうか、飛鳥には変わってほしくない。


 いつまでも、心根の優しい、綺麗な子でいて欲しい。


 だから、閉じ込めて、躾と称して厳しく接した。


 飛鳥が、私の傍から離れないように。

 飛鳥の世界が、全て私になるように。


 ゆっくりゆっくり、飛鳥を支配していった。


 それが、おかしいのには、何となく気づいてた。


 だけど、今さら、やめられなかった。失う恐怖が、それを更に悪化させていた。


 だって、飛鳥がいなくなったら、私には、本当になにも残らない気がしたから。


 なぜなら──


「これに、サインして」


「…………」


 飛鳥を閉じ込めてから、数ヶ月がたった頃、侑斗が離婚届を突きつけてきた。


 飛鳥が、4歳になる直前。

 クリスマスをすぎた、年末の頃だった。


 もう、とっくに壊れていた。

 離婚なんて、時間の問題だと気づいていた。


 目の前の緑色の紙を見ながら、怒りとか、悲しみとか、そんなものがいっぱいになる中、なんとか冷静に話をした。


 何がなんでも、飛鳥だけは渡したくなかったから。


 私の可愛い息子──飛鳥は、私の分身のような存在だった。


「離婚したいなら、すればいいわ。ただし、親権は、絶対に渡さない」


 そういったら、侑斗は少しだけ考えた後『それでいい』と小さくうなづいた。


 幸せだった世界は、見事に崩壊して、私の心の中は、もう真っ黒だった。


 両親が望んだ自慢の娘でも、心根の綺麗な娘でもなくなった。


 だけど──


(違う! 私のせいじゃない!)


 それを、自分のせいとは思いたくなかった。


 家庭が崩壊するのを、自分のせいだと認めたくなかった。


 全部、侑斗のせいにした。


 侑斗が浮気なんてするからいけない。


 仕事ばかりなのがいけない。


 私のそばに、いてくれないのがいけない。


 誰かのせいにして、自分を守った。


 だけど、侑斗の荷物が綺麗なサッパリ消えた家の中は、まるで火が消えたように静かになって、また涙が溢れてきた。


 好きだった人に、嫌われた。


 その揺るがない事実が、私を再び不幸に突き落とした。


 一人呆然と部屋の中で泣きながら、穏やかで優しかったあの頃と、照らし合わせる。


 いつからだろう。

 侑斗が、私と目をあわせなくなったのは…


 いつからだろう。

 飛鳥が、わがままを言わなくなったのは…


 いつからだろう。

 この家から、笑い声が聞こえなくなったのは…


 何もかもが、変わってしまった。


 もう、これ以上、なにも失いたくなかった。


 だけど、そんな私の願いとは裏腹に、ある日、突然




 飛鳥が、いなくなった。


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