第535話 行動と愛情
(すごく、嬉しそう……っ)
こんな些細な一言に、こんなにも喜んでくれる。
それだけ彼は、私のことを好きでいてくれる。
きっと、こんなに、幸せなことはない。
「少しは、話す気になった?」
「え?」
「あのさ。さっきは『もう待たない』って言って強引なことをしたけど、本当は、無理強いをするつもりはないんだよ」
すると、飛鳥は、そんなあかりに追い打ちをかけるように、更に優しい言葉をなげかけてきた。
「あかりが、話せる気になるまで、いつまでも、待つつもりでいる。待って待って、待ちつづけて、仮におじいちゃんになったとしても、あかりとの縁が切れないなら、それでいい」
紡いだ糸。繋がった絆。
それが、いつまでも、ここにありつづけてくれるなら──
「どんな形でもいい。あかりが、ずっと、俺の隣にいてくれるなら。だから、もう無理はしなくていい。嘘もつかなくていい。俺はあかりの気持ちを尊重するから、安心して話して──」
「……っ」
それは、恋人や夫婦、家族といった形のとらわれることなく、今の関係のままでもいいと言っていた。
あなたにとって、この状態は、きっと、苦しいはずなのに、私が、一人が楽だなんて言ったばかりに、私の意思を尊重しようとしてくれる。
たとえ結ばれなくても、傍に居てくれるなら、それでいいと。
あなたが、求めているものは
あなたが望む『未来』は
それではないはずなのに──…
(ちゃんと、言わなきゃ……っ)
こんなにも、私のことを思ってくれる人を、信じなくてどうするのだろう。
これ以上、この人を待たせてどうするのだろう。
だから、ちゃんと言おう。
私も、あなたが好きです──と。
「……神木さん」
「なに?」
小さく唇を噛み締めると、あかりは、静かに覚悟を決めた。
もし、私の方から『好き』と伝えたら、あなたは、喜んでくれますか?
私が、あなたの気持ちに答えたら
私が、あなたの恋人になったら
あなたは、喜んでくれる?
「や、やっぱり……髪に…触ってもいいですか?」
「え?」
勇気を振り絞って、あかりは言葉を紡いだ。
さっきとは、真逆の言葉。
飛鳥の言葉を、素直に受け入れる言葉。
すると飛鳥は、少し驚きつつも
「いいよ」
そう返すと、あかりが触りやすいように、少し前かがみになってくれた。
距離が近づくと、飛鳥の青い瞳に、あかりが映り込んだ。
ドクン、ドクンと鼓動が、さらに加速する。
するとあかりは、そっと手を伸ばし、飛鳥の長い髪に触れた。
サラサラと流れる金色の髪が、あかりの指先に絡みつく。
細くて鮮やかな髪。それは、彼の純粋な心根を表すように綺麗で、しばらく撫でていると、飛鳥が心地よさそうに、目を閉じた。
髪を撫でられる感覚は、どこかくすくったくて、ほっとした。
あかりの手つきが、あまりにも優しくて、飛鳥は、その感覚に酔いしれる。
全く警戒することなく、静かに身を委ね、だが、その瞬間──
「っ……!」
不意に、唇に何かが触れた。
甘い香りと同時に、羽根が撫でるような優しい感触が、飛鳥に伝わる。
始めは、それが何か分からなかった。
だが、目を開けた瞬間、あかりからキスをされているのが分かった。
(──え?)
それは、とてもつたなくて、もどかしい口付け。
だけど、確かな愛情が伝わる行動で──
「っ……、」
唇が離れると、飛鳥は微動だにせず、あかりを見つめた。
柔らかな感触は、先ほど自分が与えたキスの比じゃないくらい衝撃的だった。
まるで、夢でも見ているような──
だが、それが現実であることは、あかりの顔を見れば、すぐにわかった。
今にも卒倒するんじゃないかってくらいは、あかりは、真っ赤になっていて、きっと、恥ずかしくて、仕方ないのだろうと思った。
それも、そうだろう。
髪に触れるだけでも、あんなに恥ずかしがっていたのに、自分から、キスまでしたのだから──
「かみきさん……っ」
瞬間、あかりが、唇を震わせながら飛鳥の名を呼んだ。
しっかり、伝えたいと思った。
今の自分の思いを、言葉だけでなく、ちゃんと行動でも返してあげたいと思った。
ちゃんと、伝わってほしい。
この気持ちが、あなたに届いてほしい。
「神木さん、私は……っ」
顔を上げると、あかりは、しっかり飛鳥を見つめた。
もう、逃げない。
もう、嘘はつかない。
私も、あなたの隣にいたい。
だって、私も
あなたのことを
こんなにも、こんなにも
恋しく思っているから──
「私も、あなたが……っ」
ピチャン──!
「……!」
だが、その瞬間、廊下の奥から水音が響いた。
静かな校舎に響くその音は、とても鮮明だった。
ピチャン、ピチャンと、水滴が滴るような不気味な音。
そして、それは、夏の夜と、あかりの思考を一気に凍りつかせた。
「あ……ッ」
声が出せなくなって、赤い頬も、熱い体も、何もかも熱を失う。
まるで、雪の中にいるみたいに、冷えた感情が、全身を覆い尽くす。
あかりの視界に映り込んだのは女の姿だった。
暗がりの廊下の先で、ゆらゆらと浮き上がった不気味な影。
そしてそれは、真っ白なセーターを血で真っ赤に染めあげた
──
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