第570話 ご褒美


「まあ、俺の今までの印象では、お前の女はお前を売らないし、相手の男も女を利用するつもりはないと見ているがな」

「……私の女ではありません」

「この件は俺に任せろ。お前が必要ならその時は頼む。 何を複雑な顔をしてる?」

「あ、いえ……」


 いまだに写真の削除さえ出来ない彼女の結婚。


 詐欺などに遭わずに幸せになって欲しいと願う一方で、このまま永遠に失うのかと苦しくも感じる。


 知りたくなかった。本音はこれであるが知ってしまった以上、前に進まなくてはならない。


 そして、そのチャンスを信頼するセスとノエルがくれたと気持ちを切り替えた。


 ゼノはキッと顔を引き締める。


「代表、新しい情報は私にも教えて下さい。彼女をよく知るのは私です。彼女の傷が最小限になる様にしたい」

「ゼノ、お前が成長したのと同じ様に、向こうもお前の知らない時間を過ごして変わっている。昔のままじゃない。それを忘れるな」

「……はい」


 代表は、会計はしておくと言って帰って行った。


 重たい気持ちのまま、ゼノは甘ったるい紹興酒を飲み干す。


 そんなリーダーに、3人前の杏仁豆腐を平らげたジョンが、お腹をポンポンと鳴らしてみせた。


「見てー。僕、赤ちゃんがいるのー」

「ジョン! 全部食べたのですか⁈」

「残したらもったいないじゃん」

「はぁー」


 つまらない話に、大人しく待っていてくれた末っ子に目尻が下がる。そして、ご褒美をあげたくなった。


「ジョン。飲み足りないので付き合ってくれますか?」

「お酒⁈ うん! どこまででも付き合っちゃう〜」


 このまま宿舎に帰ってはご褒美にならない。何より、自分が帰りたくない気分だった。


 ゼノは少し考えて、いい事を思い付いたと目を細めた。


 会社のクリスマスパーティーに呼んだ友人のクラブDJに連絡を取り、彼が今夜出演するクラブを聞き出してシートを予約した。


「クラブ⁈ 」

「はい。踊りながらなら寝ないですよね?」

「やったー! 」


 ホテルからタクシーに乗り合井パクチョンに向かう。


合井パクチョン弘大ホンデじゃなくて?」

「最近は合井パクチョンにクラブやライブハウスが増えて来たのですよ。最新スポットです」

「えー! 僕達、そんな所に行っていいの⁈」

「平日の夜ですし、友人を応援するのは悪い事ではありません。それに踊りたい気分です」

「うわ、ゼノ。どうしちゃったの⁈ 好きな人が結婚するからヤケ酒⁈」

「ハッキリ言ってくれますね……帰りますか?」

「いや〜ん。ゼノお兄様ったら〜、お付き合いしますわ〜」

「ジョン……ナンパは禁止ですよ」

「しない、しないバァー」

「はぁー……なんだか不安になって来ましたよ」

「お兄様一筋ですからー!」


 クラブの入り口で手にスタンプを押してもらうやいなや、ジョンは「サタデーナイトフィーバー!」と、叫びながら人混みに消えた。


「木曜ですよー……って聞こえてませんね」


 ゼノは苦笑いをしながら案内されたシートにドサっと座る。






 ノエルは、シンイーのアトリエで床に敷物を広げ、彼女の膝枕でひと眠りしていた。

  

 お弁当を作るシンイーの腕前はデートのたびに上達し、グルメなノエルの舌をうならせる。


 まだ夕飯の時間には早いと言われてもノエルは我慢出来ず、満腹になって寝てしまった。


 シンイーはノエルを見下ろしながら、その黒髪をクルクルと指に絡めてはくを繰り返して遊んでいた。


 ノエルが目を開ける。


「ん、どのくらい寝てた? 40分? あー、すごくスッキリしたよ」


 ノエルはそう言いながらもシンイーの膝から退かない。


 クルクルとするシンイーの指と自分の髪を寄り目にして見上げる。


「楽しい?」

「綺麗な髪」

「そう? シンイーも綺麗だよ」


 シンイーの頭の上にピンクのハートが飛び交う。


「あはっ! 何度見ても幸せな気分になるよ」

「幸せ?」

「そう、本当幸せ。癒されるー……」


 ノエルはまた、寝てしまいそうになる。


 しかし、シンイーは寂しいだとか、つまらないといった感情を出さなかった。


(寂しがるのは僕と別れる時だけ。つまらない時は言葉に出して我慢しない。だから今、僕は寝ていてもいい……)


 ノエルは安心してシンイーの膝枕で眠りに付く。


 実際、シンイーはノエルといるだけで楽しかった。それが寝ていたとしても変わらず、男性にしては長い睫毛まつげも、キメの細かい素肌も、ふっくらとしている唇も見ているだけで創作意欲を刺激される。


 次のデッサンの授業でノエルの指を描こうと、記憶にとどめる為に熱心に観察をする。


 手入れなんかしていないと言う指先はどこまでも長く、そして柔らかい。


 少女漫画の主人公の様なノエルを見るだけで大学の課題がさくさく進む。


 雑誌や動画で見るノエルよりも膝の上で寝息を立てるノエルの方が何倍も美しいと感じる。


(時間よ止まれ……)


 シンイーは帰らなくてはならない時間までノエルを起こさなかった。






 シンイーの “寂しい” と “残念” な気持ち、青い滴と灰色の尻尾のイメージを頭の中に見ながらノエルは微笑んでキスをする。


 シンイーの感情が色と形で見えるノエルは、いつものその景色が心変わりのない証拠だと安堵した。


「見送らなくていいから。おやすみ」


 自宅の玄関に押し込み、ドアを閉める。鍵を掛けたか音で確認してからゼノに連絡をした。






 ノエルが合井パクチョンのクラブに到着すると、ゼノはソファーシートで寝てしまっていた。


 週末の夜ほどではないにしても、ソウルのホットスポットはそれなりの人出ひとでがある。


 ノエルは踊る人混みの中に末っ子の姿を探した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る