第234話 ノエルの母


 案の定、一般の外来が行われている今の時間の救急外来は、閑散かんさんとしていた。


 受付の中に入り、電子カルテを見つける。


(オペ室のロッカーをもらえないのは新人だから。で、新人は自分のIDとパスワードを名札の裏に書いて……あった、よし)


 トラブルは、そのIDとパスワードを入力してカルテ内に入った。


 ノエルの本名でカルテ検索をかける。が、ヒットしない。


(本名でカルテを作っていないのか……まさか『ノエル』? いや、院内にノエルが入院している噂は広まっているはず。他科に個人情報が漏れないように隠語を使っているはずだ……)


 トラブルは整形外科のカルテにアクセスする。


 しかし、入院日検索の項目はなく、調べようがない。


(整形外科に直接行くか? ダメだ、今の時間、病棟のナースステーションは記録をする看護師が大勢いる。どうする……考えろ……)


 トラブルは、テオの言葉を思い出した。


『ノエルってね、クリスチャンネームなんだよ。ミドルネームなんだって』


(ミドルネーム! そうだ、ノエルを本名の間に入れてー……ヒット! テオ、感謝ー)


 ノエルのカルテが目の前に現れた。


 ほくそ笑んで目を通していると、背後の人影に気付くのが遅れた。


「先生、何か御用ですか?」


 突然、声を掛けられ、トラブルは固まったまま振り向く事が出来ない。


 背中に汗が一筋、流れ落ちる。


 警備員の男性が、トラブルの見る画面をのぞき込んだ。


「あ、先生、特別室の患者のカルテをむやみに開くなと、院長から御達おたっしがあったばかりですよ」


 トラブルは愛想笑いをして、指で、ちょっとだけと、示す。


「ファンなんですか? まあ、ちょっとだけですよ」


 警備員は笑いながら去って行った。


 ふーっと手で汗を拭き、作業に移る。


(ここで、カルテを見ている時間は無いな。カルテ印刷は記録が残るから……)


 トラブルはカルテをスクリーンショットして行く。


 隣のプリンターが低い音を立てる。


(早く、早く……)


 トラブルはリュックにスクショしたカルテを突っ込み、救急外来を出た。


 誰にも疑われる事なく、エレベーターで上がり、整形外科病棟に到着する。


 昨日、医務室で見た、頭の中の見取り図を確認しながら真っ直ぐに特別室に向かう。


 途中、すれ違う看護師達は、見慣れない人物に注意を向けるが、白衣と名札をチラ見して終わった。


(やはり、整形外科で脳外科の医師の知名度はないに等しいな……)


 特別室のドアに聞き耳を立て、人気ひとけはないか確認する。


 廊下を見回し、後ろ手にドアを開けて、そっと室内に入った。


 トラブルが振り返ると、広い病室の中央のベッドの上で、ノエルは目を見開いて驚いていた。


「ト! トラッ……! いや、先生どうしたのですか⁈」


 平静を装ったノエルが視線で合図を送る。


 ノエルの視線の先には、白髪混じりの初老の女性が花を生けていた。


「か、母さん、僕をてくれている先生だよ」


 ノエルに母さんと呼ばれた女性は、頭を下げた。


「ト…… 先生、母です」


 トラブルもお辞儀で返す。


「あー、母さん、今日はもういいから帰って。明日、退院したら連絡するから。洗濯、ありがとう」


 小柄なノエルの母はトラブルに頭を下げ、そして、手を握った。


「先生、息子を、どうぞ、よろしくお願い致します。よろしくお願い致します」


 トラブルの手を握ったまま、腰を曲げて何度も頭を下げる。


「母さん、もういいから。大丈夫だから。先生も困っているよ」


 ノエルの母は、頭を下げたまま部屋を出て行った。


 ほーっと息を吐く。


「ごめんね、トラブル。母は心配症で。僕がやっと出来た子だったから過保護なんだよ」


優しそうな方です。


「優しい? そうだね。すごく優しいよ。みすぼらしくって驚いたでしょう? 僕の家は、テオんみたいに裕福じゃないから……」


 自虐的な笑顔を浮かべ、左手で髪をかき上げる。


「ところでさ! その格好何なの? 白衣だから、お見舞いじゃないと思って、咄嗟とっさに先生って言っちゃったけど……」


さすがです。確認したい事があって。入院説明書もしくは、病状説明書の様な用紙はもらっていませんか?


「え? 何? ごめん、分からないよ。紙に書いて」


 トラブルは床頭台しょうとうだいの上のファイルを指差す。


「それ? 昨日、もらった説明の紙だよ。見ていいよ」


 トラブルはリュックから、スクショしたカルテを取り出し、説明書と見比べる。


「これ、僕のカルテ⁈ 盗んで来たの⁈ それで、そんな格好で現れたんだー」


 トラブルはうなずいて眉毛を上げて微笑む。


(察しが良くて、助かります)

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