第537話 最後の力
代表の妻は、やっと電話に出た父親に手短に事情を説明した。
「あなたに代わって欲しいですって」
スマホを夫に渡す。
代表は緊張しながら、妻のスマホを耳に当てた。
姿勢が自然と伸びる。
「ご無沙汰しております。ご多忙は重々、承知しております。ですが、このスタッフは大佐の……いえ、元、陸軍大佐の例の……そうです。あの女性です。身柄は国境のない医師団の
妻は、スマホを耳に当てたまま深々と頭を下げる夫から、自分のスマホを奪い取る。
「お父様? 可愛い1人娘が久しぶりに頼み事をしているのに、聞いてくれないの? うん、私は元気よ。そのスタッフさんが助かったら、ご飯を食べに行きましょ。そうよ、私が彼女を助けたいの。お父様なら、何でも出来るでしょう? お願い。ううん、まだ、お母様には何も言ってないわ。お父様と2人の秘密ね。良かった。やっぱり、お父様は頼りになるわね。お願いね」
代表の妻はペロリと舌を出して、通話を切った。
「これで動いてくれなかったら、お母様に言いつけてやるから」
「さすが、我が妻。世界は君を中心に回っているね」
「よく言うわよ。自分が中心にいないと気が済まないクセに。父とそっくりね」
妻は夫の鼻をピンッとはじく。
「だから、ウマが合わないんだな」
「あら、私とも合わないと言いたいの?」
「めっそうも御座いません。俺もお義父さんも、君の周りを回る惑星の1つですよ」
「うふふ。さ、朝ご飯にしましょう」
トラブルは弱々しくも、その鼓動を大男に聞かせた。
「先生、心臓が動き出しました!」
「自発呼吸も戻りましたね。でも、弱すぎる」
ヤン・ムンセは、動脈血管の縫合を終わらせた。
「今のうちに院内に運びます! 担架……が、なければ板を持って来て下さい!」
トラブルは意識を失ったままだった。
右足の骨は皮膚を突き破っているが、動脈血の流出はなく、複雑骨折と見て取れる。しかし、左足の膝は半分に潰れ、
ヤンは、泥と埃に
(食べてなかったから貧血だったのか? それにしても……)
院内の輸血はとっくに底をつき、血圧を上げる
ドクターヘリの要請はしたが返事はない。
トラブルは辛うじて生きてはいるが、それも時間の問題だった。
(あと、何時間持つか……いや、何分……一緒に病院で寝ていれば、こんな事には。ミン・ジウさん、すみません……すみません……)
休憩室から扇風機を持って来る者や、朝食を差し出す者、そして、皆、その度にヤンの肩をポンと叩いて行った。
子供達の面倒を見てくれている若い看護師は1人ずつ、子供とトラブルを引き合わせた。
真っ白な顔をして横たわるトラブルを見て、泣いて目を背ける子もいれば、黙って手を握る子もいる。マリアは通訳の為にすべての友達に付き添った。
マリアは、まだ温かい、しかし冷たくなって行くトラブルの手の中で指文字を作った。
だいじょうぶ?
そしてトラブルの手をギュッと握る。
(トラブルはトラブルばかり起こしていたんでしょ? でも、どうにかして来たんでしょ? だったら、目を開けるくらい簡単よね? 神様、お願い。良い子になります。もっと勉強します。だから、お願い。連れて行かないで……)
マリアの手の中で、トラブルの手が微かに動いた。
「先生! 動いてる! ほら、指が動いたわ! 見て!」
壁に寄り掛かっていたヤン・ムンセは、顔を上げてトラブルに駆け寄る。
確かにトラブルの指は、ゆっくりと小さく動いていた。
「ミン・ジウさん! 分かりますか⁈ 」
声を掛けるヤン・ムンセをマリアは「しっ!」と、止めた。
「先生、これ……トラブルが何か言っているわ……」
マリアはトラブルが指文字を作っていると気付いた。イギリス手話の指文字はヤンには読めない。
「マリア、読んで下さい」
「えっと……『い』『じょ』『ぶ』……だいじょうぶ。大丈夫って! トラブルは大丈夫って言ってるわ! 良かった! トラブル、大丈夫なのね! 良かった、良かったー……」
トラブルの手の平に顔をつけ、マリアは嬉し涙を流す。
しかし、ヤン・ムンセはトラブルの『大丈夫』は信用するなと言う、イム・ユンジュの言葉を覚えていた。
(これが最後の言葉かもしれない……)
すでにアパートの崩壊から6時間が経過し、トラブルの心臓が動いている事は、奇跡に近かった。
手放しで喜ぶマリアに無理に笑顔を向け、ヤンの心はトラブルの死を受け入れる準備を始めた。
マリア達が食事に出掛けた頃、外からヘリコプターの音が聞こえて来た。ヤンは一瞬、顔を上げるが、その音が小型のヘリのモノだと分かると、ため息を
(物資補充のヘリか……)
諸外国から食料や毛布などの支援があると、小型のヘリがそれを各地に落として行く。内容は様々で木箱を開けて見ないと分からないが、すべての物が不足している現場では、どんな物でもありがたかった。
しかし、今のトラブルに必要な物など入っているはずがない。
ヤンは再び、深いため息を
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