第528話 拍手


(やはり、移植をされている。移植腎が大きいな……大人の腎臓なのか、れているのか……この辺りがモヤッとしてるけど、炎症なのかなぁ。尿管も膀胱も正常で、おしっこは出ているから良しとして、あと、膵臓は……ん! 部分移植! 生体ドナーか! たしかスハルトは大家族だから家族の誰かから……時期が知りたいなぁ。脾臓ひぞうは……)


 その時、トラブルの顔を照らしていた画面がプッと音を立てて消えた。


(え! なんで消えた⁈ あ、あー、バッテリー切れか。ソン・シムー! 早く、帰って来てー)


 トラブルが諦めてエコー機を片付けていると、天井の明かりが点いた。


(電気が戻った。コンセントに繋いで、もう1度……)


 トラブルは部屋を見回し、コンセントの差し込み口を見つけたが、そのどれもに泥が詰まっていた。


 そういえば1階は津波にのまれたのだと思い出し、スハルトに寝ていてと手話で伝えて、2階にエコーを返しに行く。


 手術室は修羅場と化していた。


 懐中電灯で照らしながら開腹を始めたのはいいが、暗い中、出血量の把握が充分に行えておらず、患者は出血分の補液をしてもらえていなかった。


 明かりが点いた事で患者の容体がハッキリと分かり、すでに瀕死の状態だとトラブルには見て取れた。


(あの3本の懐中電灯はすべて医者の手元を照らしていたのか……患者を見てないなんて、お粗末だな……)


 トラブルは手術室の隅にエコーを戻し、コンセントに繋いで充電をさせておく。


 ばたつく手術室のスタッフを邪魔しない様に体を小さくして、そっと出ようとすると「ヘイ! ユー!」と、大声で呼び止められた。


(また……今度は何⁈)


 トラブルを呼んだのは偏見のかたまりの大男ではなく、執刀中の黒人医師だった。


「手伝ってくれ!」


(え、こんなに人がいるのに?)


 トラブルが改めて手術室を見回すと、執刀医の前で介助しているスタッフは医師ではない様子だった。


(なるほど、盲腸アッペのオペとタカをくくって看護師を助手にして始めたのはいいが、腸穿孔ちょうせんこうでも起こしていたな……それにしても、この人もあの人も看護師でない様な……医療従事者は揃っていても治療に当たれる者は少ないのか……)


「頼む! 私は手が離せない! なにが起きているのか、患者をてくれ!」


 医師はトラブルに英語で、スタッフにマレー語で叫んだ。


 トラブルは、まず、点滴を全開で落とす。患者がショック状態だと確認すると、足を上げる様に、立ちすくむスタッフにジェスチャーで指示を出し、血圧計のボタンを押して測定値を待つ間に、たんの吸引器を用意した。


 血圧は低値を示し、医師に新しい点滴バッグを見せて、交換の許可をもらう。


 トラブルはスタッフに、生理食塩水の点滴をブドウ糖の点滴に換える様に指を差して言い、自分はたんの吸引を行った。そして、バッグバルブマスク(アンビューバッグ)を探し出し、ゆっくりと肺に酸素を送る。


 医師は筋膜を縫おうとしていたが、介助の看護師と息が合わないのか、怒鳴り始めた。


 トラブルは近くにいたスタッフに、バッグを握り酸素を送るタイミングを見せ、代わってと、ジェスチャーで伝える。


 介助者の後ろに周り、術野じゅつやを汚染させない様に介助者の肘を持ち、医師の縫合の手伝いをした。


 バッグバルブマスクからの空気の入りが多過ぎて、患者の胸が高く盛り上がり、筋膜が引っ張られ縫いにくくなっていた。


 トラブルは、胸が下がる様に自然な呼吸を意識してと、自分の胸の前で手を上げ下ろしする。


 マスクを持つスタッフは、トラブルの手の動きに合わせて、力を加減した。


 これで縫いやすくなったかとトラブルは医師の手元をのぞく。しかし、今度は腹部の膨らみに気が付いた。


(なんだ?)


 トラブルが患者の足元の布をめくって下腹部を見ると、信じられない光景があった。


(バルン入ってないし! 膀胱がパンパンで腹が張っているんだ!)


 トラブルは慌てて、導尿どうにょうの準備をした。しかし、教科書通りの物品が揃っているはずもなく、バケツを足で蹴って患者の足元に置き、導尿カテーテルなのか吸引カテーテルなのか分からないまま(1番細ければ、なんとかなるだろ)と、消毒もそこそこにカテーテルを尿道に差し込こんだ。


 案の定、尿が勢い良く出て、患者の腹部は平らになった。


 医師は介助者にイライラとしながらも、筋膜の緊張が緩んで縫いやすくなったと感じていた。これ以上、患者の血圧が下がる前に終わらせる為、トラブルに全身状態を任せ、縫合に集中する。


 トラブルは患者の呼吸数や爪の色、眼瞼まぶたの内側の色で異常の早期発見に努めた。


 患者が眉間にシワを寄せれば、点滴に繋いである麻酔の薬の滴下速度を早め、また眠りについた様なら速度を元に戻す。


(よし、麻酔が効いているだけで、意識を失っているわけではないな)


 医師の使うガーゼの枚数を数えつつ、記録も行う。すでに床は血みどろで、出血量の把握は不可能と判断し、それも記載しておく事を忘れない。


 医師が皮膚の縫合に入った。トラブルは薬棚から抗生物質を探し出し、医師に見せた。


 医師は、トラブルが何を意図しているかをすぐに察し、うなずいて許可を出す。


 トラブルは患者の点滴の中に抗生物質を溶かして混注した。

  

 医師の皮膚の縫合を介助者の腕を操作して手伝い、そのまま傷にガーゼをあてようとする医師の手も操作して、残っていた消毒液を創部にかけてから、ガーゼをあてた。


 患者の血圧は低いながらも安定していた。


 バッグバルブマスク(アンビューバッグ)をやめさせ、自発呼吸を確認しながら麻酔の点滴をゆっくりとして行く。


 医師はマレー語で何かを言い、周りのスタッフは弾かれた様に掃除を始めた。


 寝かせるベッドはないので、このまま手術台の上で覚醒かくせいを待つと医師はトラブルに英語で言った。トラブルはうなずきながらも、自分は下に戻ると床を指差す。

 

「せめて覚醒かくせいするまで、いてくれないか」


 医師は懇願する目をしてトラブルに言うが、トラブルは、子供達の面倒を見るからと、首を横に振った。


「そうか。後で例の子のエコーの結果を教えてくれ。力になれる事があるかもしれない」


 トラブルは医師とスタッフにペコリと頭を下げて手術室を出ようとする。すると、スタッフの1人がトラブルに拍手をした。


 1人、また1人と拍手の輪が広がり、トラブルは驚いた顔のまま、拍手を浴びる。


 トラブルは照れながらも、その拍手に笑顔で応え、舞台の幕が閉まる直前の俳優の様に、うやうやしくお辞儀をした。

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