第107話 タルク


 トラブルはヤン・ムンセを代表の元へ連れて行く。


 会社で雇ったわけではないが社内で仕事をする以上、顔だけは知っていてもらわなくてはならないと判断したからだった。


 最上階へ行くエレベーターを待っていると、優先ランプが点灯した。


 トラブルはヤン・ムンセに手話で説明する。


優先ランプが点灯されたという事は、タレントが乗っていると思って下さい。この会社の所属タレントは少ないですが一応芸能人なので特別な配慮が必要です。サインや写真を求めないで下さい。


「はい、分かりました。うわ、緊張して採血を失敗してしまうかもしれません」


彼らの身体からだは商品です。内出血班を残せば、その後の衣装に影響します。失敗は許されません。彼らは私が担当します。


「は、はい、お願いします」


 一度通り過ぎたエレベーターが到着し、2人は最上階へ向かう。


 エレベーターが開くと、偶然にも目の前に代表が立っていた。


「おう」とだけ言い、急いだ様子でエレベーターに乗り込む。


 トラブルはドアを足で押さえ、ヤン・ムンセを紹介した。


「おう、よろしくな。すまん、例のアトピーの練習生が宿舎から消えたんだ。今から親御さんと会って来る」


 代表はトラブルの足を足払いし、『閉』を押す。


 残されたトラブルは仕方がなく、うちの会社代表ですと、閉まったドアを紹介した。


「あははー。随分と四角い方ですね」


 ヤン・ムンセは気を悪くした様子もなく笑った。


 トラブルはヤン・ムンセを、人の良いお坊っちゃんだが、いわゆる上流階級臭さがなく経験を積めば良い医師になると感じた。


 イム・ユンジュも同じ理由でここに連れて来たのだろう。


 最上階の説明をする。


ここはお偉いさん方の部屋と会議室があります。会議に行ったと聞いたら最上階にいると思って下さい。次に下の階へ階段で行きましょう。階段はそこのエレベーター横と廊下の反対側にもあります。


 2人は階段を下りる。


この階と下の階はタレント専用の階です。一般事務は出入りしません。タレント控え室、マネージャー室、メイク室、衣装室、打合せ室などがあります。下の階はダンス練習室、レコーディング室、作曲・作詞家の先生の作業室、メンバーの作業室があります。では、反対側の階段から下りて行きましょう。


 トラブルらがメイク室の前を通ると、ドアが開いていた。


 ゲホゲホとメンバー達の咳と「窓を開けてー!」と、ユミちゃんの声が聞こえる。


 トラブルがのぞくと部屋中に白い粉が舞っていた。その匂いで白い粉の正体に思い当たる。


 テオが腰を曲げて咳込みながら廊下に出てきた。


「あ、トラブルー。ジョンがベビーパウダーを投げて天井で破裂したんだよ」


破裂ですか⁈


「破裂してない。ただ蓋が開いてパウダーが散乱したんだ」


 セスが頭をはたきながら出て来た。


「あー、トラブル、ベビーパウダーって吸い込んで平気?」と、ノエルとゼノがお互いをパタパタと払いながら言う。


「もー! ジョン何やってんのよ!」


 ユミちゃんのむせながらも怒りの声がする。


 部屋の真ん中で頭も顔も真っ白になったジョンが目を丸くして笑っていた。


 トラブルはジョンに、動かないでと、手話をする。


「うごくな?」


正解。


「せいかい」


 トラブルはユミちゃん達を廊下に避難させ、ジョンの頭のてっぺんから掃除機をかける。


 廊下ではヤン・ムンセが「ユミちゃん、大丈夫ですか?」と、声をかけた。


「いやーん。ヤン先生、大丈夫ですー」と、真っ白な顔で上目遣いの可愛い顔を作る。それを見て吹き出さない者はいないだろう。


 ヤン・ムンセは一応初対面の相手なので、しかし、我慢も限界でプププと控えめに顔を背けた。


「え、そんなにひどい?」


「100年の恋も冷めますね」と、ゼノが笑う。


「もー、ゼノ! ひどーい!」


「え!ゼノ⁈ 」と、ヤン・ムンセが2度見した。


「わっ! 本物だぁー! あ、失礼しました」


 頭を下げるヤンにゼノは微笑む。


「いえいえ、大抵の方はそのような反応をされますから。トラブルの手伝いの先生ですか?」

「はい、ヤン・ムンセと申します。明日から1ヶ月よろしくお願い致します」

「ユミちゃん達の言う通りイケメンだねー」


 振り向いたヤンは、再び「わっ、ノエルだ。本物だぁ」と、目を見開く。


「全員にそれ、やるつもりか」


 セスは髪を払いながら言う。


「こら、セス」と、ゼノがたしなめるが、ヤン・ムンセは「セスだぁー」と、思わず言ってから自分の口を塞いだ。


「新しいパターンだな」

 

 セスがいつもの皮肉を言い、メイクスタッフ達の笑いを誘った。


 少しはマシになったジョンがトラブルに言われて、おしぼりを持って出てきた。


「ハイ」と、皆に配る。


「皆んなー、ゴメンねー」


 そう言いながら頭と体を振ってパウダーを撒き散らす。


「ふざけんなー」と、逃げる皆んなを「ハグしようよー」と、笑いながら追い回した。


 すると、ヤン・ムンセにぶつかって止まった。


「わっ、ジョンだぁー」


 ヤンに笑顔を向けられ、人見知りのジョンは動きを止めた。そして、目でゼノに助けを求める。


「ジョン、ユミちゃん達が言っていた先生ですよ」

「こんにちは。ヤン・ムンセと申します」

「……ジョンです」

「はい、良く出来ました」


 ゼノは人見知りの末っ子の頭をパタパタとはたく。


 トラブルは、おしぼりを何本も使って雑巾掛けをしていた。テオが手伝いに入る。


吸い込んでも無害ですが大量に吸って良い物ではありません。大丈夫ですか?


「うん、僕は離れた場所にいたし、すぐに部屋を出たから大丈夫。セスが頭からかぶってた。ジョンもだけど」


何がどうして、こうなったのですか?


「ユミちゃんが僕の首にあせもがあるってベビーパウダーをつけようとしたけど、フタが開かなくて、ジョンが力づくで開けようとしてバッと投げたら天井に当たってパッカーンって。分かる?」


はい、分かりました。首を見せて下さい。


 トラブルはテオの首を見るがベビーパウダーまみれで皮膚が見えない。新しいおしぼりで拭き取るが、やはり見えにくい。


洗わないとダメですね。


 トラブルはテオを連れて廊下のユミちゃんに手話をする。テオが通訳をした。


「どこに、あせもがあったかって」

「えーと、右側の横、ここら辺」

「色と大きさは? だって」

「赤くて襟にこすったように細長く、ここに」

「痛みは? だってさ」

「そんな事、分からないわよ」

「あ、そっか、僕に聞いたのか。えーと、衣装を着けてリハーサルが終わった頃からヒリヒリし出してた。今は大丈夫だよ」


 ヤン・ムンセがテオを見て「わっ、テオだぁ。あ、いや。洗う事は出来ますか?」と、咳払いをする。


 トラブルは白衣から聴診器を取り出しヤンに渡す。


 粉をかぶったメンバー達とスタッフの診察を頼み、テオの手を引いてトイレに向かった。


 残されたヤン・ムンセは一番粉まみれのジョンから診察を始めた。


「えーと、粉をかぶったのだから……目には入りませんでしたか? 喉は? 違和感はありませんか?」


 心の中で、聴診器が何の関係があるのだろう? と、思う。


「僕に針を刺すの?」


 突然、ジョンが言い出した。


「こら、何を子供みたいな事言ってるんですか」と、ゼノは叱るが、ヤンは「ベビーパウダーをかぶっただけでは針は刺しませんよ」と、優しく言う。


「違うよ。明日の健診の事」

「ああ、安心して下さい。採血するのはミン・ジウさんですよ」

「誰? あ、トラブルか」

「僕も一瞬分かんなかった」


 ノエルが髪をかき上げる。


「トラブルって言ってよー」

「そう呼んでいいか、ミン・ジウさんに聞かないと」


 ヤンは困惑する。






 トイレで首を洗うテオのシャツは、びしょ濡れになってしまった。


「寒い」


着替えはありますか?


「うん、練習室にスウェットが置いてある」


では、行きましょう。






 ヤンは次にセスを診察する。

  

 セスは「大丈夫」の一点張りで質問に答えない。ヤンは仕方なくノエルとゼノを診察した。

 

 ノエルとゼノは丁寧に答えた。


「どうしたのですか?」と、ソヨンが戻って来た。その後ろにイム・ユンジュが付いて来ている。


「赤ちゃんの匂いがしますね」と、イムは微笑みながら言う。


「あ、僕を診察してくれた先生だ」

(第1章第32話参照)


 ノエルは頭を下げた。


「ノエルさんですね。初めましてですね」


 イム・ユンジュも挨拶をする。


「先生ー! 今、大変だったんですー。ベビーパウダーがー……」と、ユミちゃんが事の顛末てんまつを話した。


 それを聞いたイム・ユンジュは顔を青くして大声をあげた。


「ええ⁈ タルクを大量に吸い込んだ⁈ 」

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