第530話 命をかけて


 その日は豆と野菜のスープが振る舞われていた。


 実に4日振りの温かい食事を、皆、無言でむさぼり、平らげて行く。


 スハルトも久しぶりに体を起こして自分で皿を持って食べた。


 マリアは「美味しいね。美味しいね」と、年下の子達に声を掛けて涙ぐむ。


(良かった。これで皆んなの便秘が治るといいけど……)


 トラブルは健常者の子供の視線から皆を守る様に背を向けて微笑んだ。


 全員が皿を舐め終わり、マリアがスプーンと重ねてトラブルの元に運ぶ。トラブルは笑顔で受け取り、その、すでにピカピカになっている皿を洗った。


 敷かれたダンボールを片付けていると、スタッフの1人が車で送って行くと申し出てくれた。


 トラブルは、ありがたく、その申し出を受ける。


 子供達は、エアコンの付いた車で送迎なんて王様になった気分だと、笑い合う。


「マリアはお姫様だね」

「あら、ジタン、私は女王様よ。ほら、が高い」

「女王様はトラブルだよー」


 スハルトはトラブルの膝の上で、そうだ!と、笑顔で手話をする。


 運転をするスタッフは「子供が笑っていれば、その国の未来は明るいです。大人は子供の笑顔を守るのだけが仕事なんです」と、前を向いたまま頬を上げた。


 トラブルはマレー語は理解出来ないが、時折り子供に向ける、そのスタッフの温かい眼差しに、自分は1人で戦っているのではないと救われる思いがした。


 病院の駐車場で手を振って別れ、子供達にベッドに入る様に言う。しかし、昼寝をした為か、ご馳走に興奮しているのか、なかなか寝ようとはしなかった。


 マリアが手話を交えて歌を歌い出した。校歌なのか人気の歌謡曲なのか分からないトラブルを尻目に、声の出る子は声を出して歌う。


 マリアは小さい子には手遊び歌を、大きい子にはアニメの主題歌を、順番に歌って聴かせている様だった。


(これは、まだ続きそうだな……)


 トラブルは、亡くなった養護の先生がベッドとして使っていた診察台でひと休みする事にした。


 可愛らしい子供達の歌声に目を細め、枕を整えて毛布をめくった瞬間、驚愕のあまり呼吸が止まる。


 シーツにべっとりと血糊ちのりが広がっていた。


(確か、背中の怪我が原因と……こんなに出血していたのか。それを毛布で子供達から隠して……)


 トラブルは昨日から目の当たりにして来た障害児への偏見を思い返す。


(たった1人で守り続けて……私はこの子達に命を懸けられるだろうか……?)


 トラブルは、そのシーツを剥がし、丁寧に畳んだ。血液の付着した部分を内側にして、子供の目に付かない場所にしまう。


 洗い流す気にも捨てる気にも、なれなかった。


(私は1人じゃない。少しずつ助けてくれる人はいる。だから、出来る。やる)


 トラブルは、ベッドのシーツを自分の部屋に取りに戻る。アパートを出ると、ちょうど、帰って来たソン・シムと出くわした。


「おう! トラブル! 飯は食ったか? ラーメンに海苔を入れて食おうぜ」


 トラブルは首を振って足早に病院に入って行った。


「なんだ? あいつシーツなんか持って……今日は泊まりか?」







 トラブルがベッドにシーツを広げたのでマリアは喜んだ。


「トラブル、一緒に寝てくれるの⁈」


はい。でも、2階に仕事に行きます。マリア達は寝ていて下さい。


「分かった。今日は昨日より良い日だったわ。トラブル、ありがとう」


どういたしまして。さ、寝る時間です。


「はーい」

  

 マリアはベッドに入り、笑顔のままで目をつぶった。


 部屋の電気を消し、トラブルが2階に行くとジュースをくれた若い看護師が「見つけた!」と、駆け寄って来た。


 たどたどしい英語で、休憩室が綺麗になっていたと礼を言う。


「えっと、扇風機って英語で……エレクトリックファン、ファン、分かるかな……ブロークン、ケア……修理はケアじゃないか。フィックス! F、I、X 」


(Fix the fan? ああー、扇風機を直した事ね。電池を変えただけだけど……どういたしまして)


 トラブルは頭を下げた。

  

 若い看護師に当直を替わると伝え、休んでもらう事にした。  


 テレビもスマホも使えず、何の娯楽もない夜の病棟は静かだった。  


 ベッドの上の患者はもちろん、廊下で寝かされている患者の容態ようだいもチェックして歩く。


 時折、うめき声が響くが、寝言と分かり胸を撫で下ろした。


 2階の怪我をしていた子供達はあらかた保護者が迎えに来たのか人数が減っていた。空いたベッドに昼間、手術をした患者が寝ている。


(顔色は悪くない……でも、点滴は抜いたのか。感染症を起こさなければいいけれど)


 処置台の整理整頓やナースステーションの掃除をして、床に座り、壁に寄り掛かって仮眠を取った。






 この日から、トラブルは自分のアパートに戻らず病院で寝泊りをした。 


 イスラムの祈りの声で時間を知り、毎朝10時にスハルトを背負い、子供達を連れて炊き出し場所まで歩く。


 帰りの登り坂はスハルトに時々歩いてもらい、帰って来てからは、病院内で頼まれた事を何でも引き受けて働いた。


 夕方、少し涼しくなると懐中電灯を片手に瓦礫がれきと化したマリア達の学校に行き、保健室があったであろう場所のトタン屋根の下から木材とブロックを退かす。


 マリア達の情報が書いてある緑のファイルを探した。


(それさえ見つかれば、全員の住所が分かる)


 トラブルは素手で瓦礫がれきをかき分けるが、ファイルは見つからない。懐中電灯の灯りだけでは足元が覚束おぼつかなくなると諦めて病院に戻った。


 昼間、子供達の世話で抜ける分、夜は当直を引き受けた。


 病院のスタッフ達は、トラブルは聴こえているが話す事が出来ない障害者だと勘づいていた。


 しかし、少しでも困っていると、どこからか現れては手を貸してくれ、汚い仕事も力仕事も嫌がらずにやるトラブルに、苦言をていする者はいなくなっていた。


 食事は、パンやジュースも当たり前のように1階の子供達にも配られる様になった。


 果物をいて、食べやすい様にしてからマリアに渡してくれる人も現れた。


 トラブルは、毎日スハルトを背負い歩きながら体重が増えていると感じた。微熱は続いているが、おおむね体調は良い様だった。


(あー、生きているって感じがする)


 トラブルは、かつてない充実感に包まれていた。


 一方でソン・シムは、トラブルが、もう1週間もアパートに帰って来ていない事を懸念けねんしていた。

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