第531話 不安を隠して


 ソン・シムは真面目に毎日、衛星電話で代表に報告を続けていた。


 代表は『了解。健闘を祈る』と、定型文を返して来るが、時々、身重の妻と子供のメッセージ画像を添付してくれた。しかし、トラブル宛のモノは1度たりとも来た事がなかった。


 トラブルから家族の話を聞いた事がないと、ふと思う。


(家族がいない? 1人も? まさか、そんなバカな。今度、聞いてみよう……まだ帰ってないな。今日も病院に泊まるつもりか? 9日目になるぞ……)


 ソンには、看護師の仕事というものは9日間帰宅しないのが当たり前なのか、それとも代表が懸念していた帰国しないと言い出す前兆なのか判断がつかなかった。


 時々、見かけるトラブルは痩せた様にも、単に日焼けした様にも見える。目が合えば手を挙げて挨拶してくる様子は、いつもと変わりがないと感じた。


(飯は食ってると言っていたが……念の為に代表の耳に入れておくか……)


 会社の連中を心配させない為に、ソンは自分の不安を隠して事実だけをメールした。






 眠らない街・ソウルの一角で、代表は、事務方のスタッフ達と会議という名の飲み会を開いていた。


 高級焼肉店でメールの着信に気が付き、霜降り肉を口に入れ、キンキンに冷えたビールを流し込みながら横目でメールを読む。そして、ブッと吹き出した。


「おい。人間は何日、食べなくても動けるんだ⁈ 」


 骨付きカルビをかじる事務局長始め、スタッフ達は「は?」と、代表を見る。


 代表は繰り返した。


「9日間食べないと、どうなる⁈ 」

「どうなるって、死んでしまいますよ」

「死んではいないみたいだ」

「じゃあ、死にそうでしょうね」

「睡眠時間は? 何日、寝なくて平気だ?」

「え、私は1日も無理ですが……代表、どうしたのですか?」

「あのバカが、宿に帰ってないんだと!」

「あのバカ?」

「こうならない為に、お前をそばに置いておいたんだろうがー!」


 代表は衛星電話の文字に向かって叫ぶ。


「代表、お前って誰の事ですか?」

「うるさい! なんだこれ⁈ アンテナが立ってないぞ!」

「衛星電話は衛星がいい位置に来ていないと使えませんよ」

「なにー! おい、NGO(非政府組織)のあいつ! 名前は何だっけか……えーっと……あいつだよ! あいつ! あいつの連絡先は分かるか?」

「我々が加入しているNGOの代表者ですか? 会社に戻れば名簿がありますが」

「よし、戻るぞ!」

「え! 今からですか⁈ やっと肉が焼けたのに……」

「肉なんかどうでもいい! 急ぐぞ! 食ってるなよ! バカがバカして、それをバカが止めないんだよ!」


 代表は事務局長を引っ張って、店を出てしまった。


 若い事務のスタッフは呆然とする。


「あの……代表はどうしたのでしょうか?」

「あー、代表が取り乱す時は、お金絡みかトラブル絡みだから、今回はトラブル絡みかなー」

「最初の『バカ』はトラブルだとして、次の『バカ』は何でしょうね」

「さあな」

「最後の『バカ』は誰の事でしょう」

「さあ……考えても分からないから食べようぜ」

「あ! 代表、お金置いて行ってくれませんでしたよ!」

「大丈夫。会社のツケって事で」

「なら、肉、追加して良いですかね?」

「いいね〜。ビールも追加で」


 事務スタッフに会社の経費を使われている時、代表はタクシー運転手を急かして会社に乗り付けた。


 イライラとエレベーターを待ちながら、衛星電話を見て、まだアンテナが立たないと舌打ちをする。


「代表。トラブルが、またトラブルを起こしているのですか?」

「そんな所だ。ソン・シムは、あのバカが飯を食ってるのを見てないんだと」

「え! 本当ですか⁈ 」

「まあ、生きて働いているらしいから、全く食ってないわけではないと思うが……」

「代表が心配していた通りに、なりましたねー」


 エレベーターの扉が開くと、帰宅するメンバー達が降りて来た。


「お疲れ様です」


 ゼノは代表に挨拶をする。代表は返事もそこそこに「あ! アンテナが立ったぞ! ぐわっ! 消えた!」と、衛星電話を見ながら悶絶もんぜつを繰り返す。


「代表、どうしたのですか?」

「実はトラブルが……」


 事務局長がゼノの質問に答えようとすると、代表は『開』を押しながら「早く乗れ!」と、遮った。

 

「ああ、はい。では……」


 事務局長はゼノに頭を下げてエレベーターに乗り込む。ゼノはドアが閉まる直前、代表の舌打ちを聞いた。


「今、トラブルがって言ったよね……何かあったんだよね……」


 テオの顔が青くなる。ノエルはテオの背中をさすりながら、そっと押して駐車場に向かわせた。


 テオは、振り向いて、それを拒否する。


「僕、代表の所に行ってくる!」


 不安を隠さないテオに、ノエルは優しく言う。


「テオ、心配なのは分かるけど、テオが行ってどうなるの? 代表が、きっと上手くやってくれるよ」

「そうだけど……まだ今日のソンさんの報告聞いてないじゃん。だから、聞いてくる」

「……僕達も知りたいよ。でもさ、代表が、ああやってオーバーアクションの時は、いつも、そんなに大した事じゃないじゃん。でしょ? だから、大丈夫だよ」

「う、うん。そうだけど……」

「もうすぐ、トラブルは元気で帰って来る。ね? 大丈夫だよ」

「……うん」

「さあ、帰って休まないとね。明日も早いよ」

「うん」


 流れ出て来る感情を敏感に感じ取る力はあっても、ノエルには、なぜ代表が慌てているのかまでは分からなかった。


 項垂うなだれてトボトボと歩くテオの背中を押しながら、セスを見る。


 セスはテオと同じ様に青い顔をしていた。しかし、テオと違い、その顔には恐怖の色が浮かんでいる。


(セス……何が起きているの?)

(分からない。ただ、もっと人が……)

(人が、何?)

(いや……今は止めよう)

(セス?)


 セスは、それきり黙り込んでノエルの呼び掛けに応えなかった。






 執務室で、代表はNGO事務所の代表者に電話をする。


 夜分に申し訳ないと前置きをしてから、自社から派遣したスタッフの体調と現状確認をして欲しいと頼む。しかし、登録者に異変があれば現地の世話役から連絡が入る仕組みになっており、現時点で、その連絡はないと突っぱねられた。


「衛星電話を持ち込んでいるなら、連絡が取れるまで待ってみて下さい。被災地のスタッフは多忙です!」


 ブチっと通話を切られ、代表は思わず自分のスマホを床に叩きつける……そぶりをしてポケットにしまった。

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