第90話 遺言書と遺産相続

 

 トラブルは音を立てて立ち上がった。通じる相手がいない事も忘れて手話で叫ぶ。


いりません! そんな事、望んでいない!


「まずは聞いて下さい」


 弁護士は遺言書を開く前に、パク・ユンホに本当に相続人がいないか調査した事を明かした。


「パク・ユンホ氏には法廷相続権を持つ相続人の存在は確認出来ませんでした。したがって、遺言書に従い手続きを行います」


 トラブルは息を荒くしたまま座り、耳を傾ける。


 弁護士が遺言書を開いて読み上げた。


『私、パク・ユンホの名義物、著作物のすべてをミン・ジウに相続させる。ミン・ジウの相続物の内、会社名義・建物・会社名義の口座・以下の著作権・自宅と土地はキム・ミンジュに寄付する事。寄付を受けるにあたり、キム・ミンジュはミン・ジウの意向に沿った人事を行う事。その他の著作権、下記住所の土地・建物、銀行個人口座はミン・ジウが相続する事。長年の勤めてくれたお手伝いさんにも寄付する事』


「何でそんな回りくどい事を」と、キム・ミンジュが困惑する。


 弁護士が続ける。


「パク・ユンホ氏はキム・ミンジュさんに直接相続させると相続税が払えない問題があると危惧きぐされていました。寄付として受け取れば問題はありません」


 私も相続税なんて払えませんと、トラブルは身振りで伝える。


「ミン・ジウさんはパク氏と同居を始めた時点から給料が積み立てられています。えーと、これが銀行通帳です。ご存知ありませんでしたか?」


 トラブルは通帳を開き、その金額を見て驚愕した。


 精神病院を退院した年から始まり、今月まで振り込みが行われていた。


 かなりの残高がある。トラブルは慌てて弁護士に手話をした。


しかし、私はパクから直接お金を受け取っていました。


 弁護士はその反応を予測していたようだった。


 通帳を指し「それは給料の一部を渡していただけです。ほら、毎月同じ額が引き落とされています。これは、あなた名義の口座で実際運用されていたので架空口座や脱税などではありません。源泉徴収票も残っています」


 トラブルの口は塞がらない。


「続けますよ。まずはミン・ジウさんにすべてを相続して頂き、その通帳から相続税を支払います。その後、キム・ミンジュさんへの寄付の手続きを行います。ここまででご質問は?」


 キム・ミンジュが「手続きがすべて終了するまでアシスタント達やお手伝いさんはどうすればいいのですか?」と、聞いた。


「著作権の移動がたくさんありますので、すべての手続きが終了するまでに半年以上掛かります。その間は、なるべく住所変更などをして頂きたくはないので、現状維持をお願いしたいです。新たな仕事の依頼はキム・ミンジュさんの個人契約としておけば著作権の移動が増えずに助かります」


「分かりました」


「ミン・ジウさんにはサインをして頂く書類があるので残って下さい。あとは寄付の条件を確認します」


 キム・ミンジュらは席を外した。


「えーと、まずは…… 」


 弁護士はファイリングされた多量の書類の束を取り出し、トラブルに差し出す。


 パク事務所の土地と建物の登記書類はパク・ユンホの曾祖父の時代から写真館が営まれていた事を示していた。


 曾祖父、祖父、父、そして息子であるパク・ユンホ。パク一族の名前が並んでいる。


(ここに私なんかの名前が記載されて良いのだろうか…… )


 自分には名前がない。今の法的な名前は3人目の養父が便宜上付けたモノだ。


 トラブルの手が止まる。


「やはり躊躇ちゅうちょしましたね。パク氏は、必ずあなたが悩むと仰っていました。しかし、聞いて下さい。法廷相続人がいない以上、あなたが一旦相続しなければ国の所有となり、取り戻す事は不可能になります。パク氏はキム・ミンジュ氏に会社を継いでもらいたいと思っていました。それを実現出来るのはミン・ジウだけです。ミン・ジウだけが職員やお手伝いさんを路頭に迷わせないように出来るのです」


 トラブルは心を決めてサインを始めた。


 土地の登記証、建物の登記証…… 1枚1枚、内容を確認して住所・氏名・生年月日を書いて行く。


(あ、これは、エロ俳優の写真集の著作権書類だ。これは、あの雑誌の表紙写真のだ)


 固く心を閉ざしていた自分に、パクは独り言の様に仕事を教えてくれていた。書類の日付をみて、今更ながら一緒に過ごした年月を思う。


 そして、自分と出会う前の著作物の多さに鬼才と呼ばれたパクの熱量を改めて感じる。


 熱くなる目頭に耐えながらペンを走らせた。


 10枚程書いたところで、全てに住所、生年月日がいるのか?と、質問をする。


「必要です。すべて違う著作物の著作権変更書類です」


(夜まで掛かっても終わりそうにないぞ…… )


 サインが終わったら連絡するので預かっていいですか? と、トラブルは言う。


「ダメです。破損や紛失したら大変困ります。今、書いて下さい」


ハンコでは?


「直筆です」


 ふぅー、と、諦めて書き始めるが、更に10枚程書き終わった所で手首が痛くなってきた。


「では、また、明日来ます」


 すべての書類を持って、弁護士は帰って行った。





 裁判所へ提出する戸籍謄本を取り寄せたり、またサインしたりで、一週間が瞬く間すぎて行った。


「これでひと段落です。相続が完了したらお知らせします。次は寄付の手続きに入ります」


 トラブルは弁護士の言葉に力が抜ける。


(これで、しばらく書類から解放だぁ。明日は出勤出来る…… あー、テオに会いたいなぁ)


 ラインに『明日は出勤します。早く会いた…… 』と、打ちかけて『早くー』の部分を消す。


『明日は出勤します』とだけ送信した。



(やっぱり、業務連絡みたい。苦手だ…… )



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