第96話 あの絵


 トラブルは埃っぽい家を出て、河川敷へ向かう。


 対岸は民家が増えて景色が変わっているが、こちら側は川原かわらあしの林が続き、以前と変わらず静かだった。遠くに幹線道路の音がする。


 川原の石に座り、メモを取り出す。


 やる事リストと優先順位。

 買い物リスト。

 引っ越しの手配。


 健康診断と時期が重なるがヘルプも来るし、どうにかなるだろうと段取りを考える。


(壁と床の剥がれは業者に頼むとして……基礎から直す事になったら時間がかかるな。窓ガラスが割れていないのは奇跡だ。雨漏りのチェックもしなくては。雨の日に来るしかないのか?)


 トラブルはなんだか楽しくなって来た。


(もっと涙にくれると思っていたのに。明日も来よう。毎日、窓を開けて、少しずつ掃除を始めよう)


 玄関のドアノブを少し持ち上げながら鍵を掛けた。


 バイクで来た道を戻る。


 幹線道路に出た所で路肩にバイクを停め、リュックから一枚のスケッチを取り出して、その絵と景色を比べる。


(やっぱり……)


 テオが車から見た景色は、ここから、あの家を見た風景だった。


 今はあしの背が低くく、立っていても青い屋根がかろうじて見える。


 テオは車の中から見たと言っていたので、もっと葦の背が高い時期だったのだろう。


 たった一瞬見えた青い屋根がテオの心に残り、この絵を描いた。それが、かつての私の家だと知ったらどんな顔をするだろうか。


 あの日、テオの部屋でこの絵を見つけた日、(第1章52章参照)何故か懐かしさを感じた。

でも、すぐには、思い出せなかった。


 何故、こんな気持ちになるのだろうと考えて、見た事のある景色だと気が付いた。


 それほど、深い所にしまわれていた記憶をテオが呼び覚ました。


 こんな偶然ある?


 私が一番幸せだった場所。そして、思い出したくない場所。


 そこにパク・ユンホとテオは私を戻した。


 これが偶然でも運命でも、もう、逃げない。何でも受け入れてやる。


 トラブルはキッと顔を上げてバイクのエンジンをかける。


(さあ、仕事に戻ろう)


 




 会社の駐車場に入ると、倉庫脇に配送トラックが停まっていた。


 カン・ジフンが空の台車を持って倉庫から出て来る。


 バイクのエンジンを停めて手を上げて挨拶をする。カン・ジフンも手を上げて応えた。


 台車を荷台に片付けたカン・ジフンが「明日、ランチに行けるかなぁ」と、柔らかい笑顔を向ける。


 トラブルは、OKと、指で返事をした。


「よかった。じゃ、明日」


 立ち去ろうとするカン・ジフンをトラブルは引き止めた。スマホのメモで『その、トラックは休日に使えますか?』と、訊ねた。


「うん、僕のトラックだから使えるよ。これで通勤してるし」

『まだ、先ですが引っ越しを手伝ってもらいたいです』

「いいよ。トラブルの引っ越し?」

『はい』

「どこから、どこへ?」

『郊外から、この川沿いです。近いです』

「なら、1日で大丈夫だね。日曜日なら空いてるから、連絡くれればいつでも大丈夫だよ」

『ありがとう。じゃ、また、明日』


 カン・ジフンのトラックを見送っていると、メンバー達を乗せたSUVが帰って来た。


 トラブルはペコッと頭を下げて建物に入って行った。


「あ、トラブル! 行っちゃた……今のカン・ジフンさんのトラックだよね?」


 マネージャーが「今から雑誌のインタビューですからね。医務室に行く時間はないですからね」と、念を押す。


「分かってますよー」


 テオは口を尖らせる。


「まったく、今日は集中出来ていなかったんだから反省しなさいよ」と、マネージャーは続けた。


「はーい」


 テオはあさっての方角を見て返事をした。


 車を降り、インタビュアーの待つ部屋へ直接向かう。


 メイクはしたままだが、この服装で良いかコンセプトを確認する。


 OKをもらい、簡単なアンケートに答えてからインタビューが始まった。


 写真を撮られながらメンバー達は自分のイメージキャラにそった返事をして行く。


 ジョークと時々意外性を散りばめ、ファンが喜ぶキャラを演じる。が、テオは話しを聞いていなかったりカメラを見ていなかったりと、うわの空でインタビューに集中していない。


 インタビュアーが最年少でしたっけ? と苦笑いで言い、ゼノとノエルが普段のテオの不思議っぷりを披露して笑いに変えた。


 インタビューが終わり、自分達の控え室へ戻るとマネージャーが叩く様にドアを閉めた。


 その怒りの顔は明らかにテオに向いている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る