第651話 金のカギ


「あの家は、僕の……」


 僕の思い出の場所と言いたいが言えない。あまりにも幼稚で感傷的な理由だと自分でも情けなくなるが、それでも大切な場所だった。


 他の誰かにけがされたくない。


 テオは、自分もあの家の価値は分かっているつもりだと主張した。


「ト、トラブルが絶対に売らないって約束してくれるなら返します。でも、売っちゃったし……帰って来るのか聞いても、未来は分からないって言うつもりでしょ? 僕が、大切に使うから……だから……手離したくない」


 控えめだが、テオらしくないハッキリした主張にパン・ムヒョンは驚きを隠せない。


「あの家にあるのは、彼女との思い出だけだろう⁈ そんなものは、違う恋に出会えば簡単に上書きされる消え物だよ」

「違っ……思い出じゃなくて。その、隠れ家にちょうどイイし、場所とか、色とか、えっと色は関係なくて、トイレとか、出るのが最高で……」


 テオってば、何を言い出すの⁈ と、ノエルが心の声を顔に出しても、ジョンが、う○こ⁈ と、口を動かしても、作曲家は冷静だった。


「出る? 何が出るのかね?」

「あ、シャワーです。シャワーがシャワーって……」

「君は何を言っているのだね⁈ 生きたあかしだと私は言っているのだよ。チェ・ジオン氏がそこで生きていた。そして、最愛の人と過ごした最期の場所なんだよ。それとシャワーのを比べるなどと……テオくん、君の感性はどうかしてしまったのかね⁈ 」

「いえ、あの、その……」


 言いたい事を上手く伝えられずにいるテオを見かねて、ノエルが助け舟を出した。


「先生、トラブルは売り飛ばしたんですよ? 偶然、テオが買えたけど、あの辺りは再開発が進んでいるし、テオが買わなくても、すぐに取り壊されていたと思います。それに、トラブルはどうなの? 返してもらいたい?」


 トラブルが、NOと、言うのは分かっていた。そして、答えはやはりNOだった。


「いりません。この国に戻るつもりはありませんし、私にはもう……必要ありません」

「必要がない⁈ 我が友がどんな思いで君にのこしたか想像してみてくれ。2人の始まりと終わりを見ていた家は君にとっても特別な場所のはずだろう⁈ 」


 特別な場所。その意味を考える。しかし、やはり答えは同じだった。


「特別なのは、場所じゃない。彼はどこにでもいて、私はいつでも彼を感じられる。好きな時に好きな表情を見る事が出来る。彼の匂いも彼の……すべてが私の中にある。だから、あの家は必要ない」


 言葉を失う作曲家に、テオは恐る恐る自分が青い家で感じた事を話した。


「先生。僕は、あの家でチェ・ジオンさんを感じた事があるんです。でも、今は感じない。あの家には、もう、いないと思うんです」

「いない⁈ 幽霊なんてバカな話は……」

「違うんです! 本当にチェ・ジオンさんはいたんです。本当の本当です。今は……トラブルといます。鍵と一緒に」

「鍵⁈ 鍵とは何の事だね?」

「あ、あの、家の……宝箱の鍵みたいな……」


 テオはトラブルと視線を合わせた。


「だよね? あの鍵は捨ててないよね?」


 テオは家の引き渡しの際、何の変哲へんてつもない銀色の鍵を渡されて戸惑った。青い家の青いドアはそのままで、鍵だけが新しい物に取り替えられていた。


(トラブルが持ってるんだ……)


 透明なクリスタルの人形と共に、った装飾の金色の鍵も一緒にいると分かった。


 トラブルはテオが気付いていてくれた事に驚きつつも嬉しかった。


 テオに微笑む。


「……どうしても捨てられませんでした。あの鍵が気に入ってドアを決めた時の笑顔が忘れられなくて」

(第2章第92話参照)


 トラブルは、家を売る際に不動産会社から鍵の交換をする様に言われた。


 通常はドアごと取り換えるのだと教えられたが、この青い家に他のドアなど考えられない。


 鍵だけ取り換える工事をしてもらい、役割を終わらせた金の鍵は、肩の荷を下ろしてカンボジアで寝室の飾りになっていた。


「彼が鍵といるかは分かりません。でも、テオの言う意味は分かります。あそこに彼はいません。パク・ユンホもいません。2人とも死んだんです。家は生きるのに必要な人が使うべきです。私は生きています。でも、必要はない。生きて、前に進む道しか見えません」


 トラブルの声はかすれても震えてもいなかった。


 パン・ムヒョンは、その真っ直ぐな目を見る。そして、小さくため息をいた。


「そうか、君は……君達は生きている。前に進む道は生きているからこそ見えるのだね……私がバカだった。亡くなった友に心を縛られていた。生きている者の未来こそ、最優先に考えなくてはならないのに……許しておくれ」


 60代の偉大な作曲家は、20代のアイドルに頭を下げる。


「ところで、テオくん。ノエルくんが言った再開発の件は本当かね?」

「あ、はい。河沿いを住宅地にするそうです」

「そうか、素晴らしい景観だと聞いていたが残念だ」

「いえ、それが……」


 テオはチラリとセスを見た。


 セスは、言うなと、視線を送るがテオには通じない。


「実はセスが……」

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