第135話 幸せとは


 トラブルは手話をするが、テオは腰に抱きついて顔を埋めたまま見ようとしない。


 トラブルは困ってテオの頭をポンポンとした。


 テオの髪はスタイリング剤で固められて硬い。顔を上げさせるとアイメイクがこすれ取れかかっていた。


 すがる目を向けるテオを優しく見下ろす。


早く帰らなくては。明日も仕事ですよ。


「うん……トラブルは仕事中だもんね」


テオは診察台に仰向けになる。トラブルはテオのボタンを外してシャツを開き、胸を露出させた。


 電極を手足に付け終え、胸の肋間ろっかんに手をやり、電極位置を決める為に前屈まえかがみになる。


 トラブルの顔がテオの胸に近づいた。


 唐突にテオは両腕で抱きしめた。トラブルはテオの肩に顔をぶつける。


 手首の電極につながったコードが音を立て、トラブルは不自然な姿勢のまま、テオの胸に体重を乗せた。


「ずっと我慢してたって言ったじゃん」


 テオはトラブルの髪に指を入れて抱きしめる腕に力を込める。が、トラブルは動かない。


 テオに体重を乗せたまま何の反応も見せなかった。


「……トラブル?」


 テオは腕を緩め、頭を上げてトラブルを見る。すると、体を起こして見下ろすトラブルの顔は、明らかに怒っていた。


「あ、怒ったの? ごめん、トラブル……」


仕事をさせて下さい。公私混同は大嫌いです。


「……! ごめんなさい」


 トラブルはテオの胸に電極を取り付け、無言のままスタートボタンを押す。心電計を見つめ手首の電極のズレを直し、もう一度スタートさせた。


 計測終了の合図が鳴り、電極をすべて外す。残った電極のゼリーを拭き取り、終わりましたと、手話をした。


 テオは起き上がり、項垂うなだれたままシャツのボタンを閉める。


 トラブルは心電図を片付けパソコンをシャットダウンさせた。


 終始無言だった。


「あの、ごめん。そんなに怒るとは思わなかったんだ」


あなたの悪い癖です。


「うん、ごめん。久しぶりに2人きりに、なれたから嬉しくてつい……」


私も嬉しいですが、今日はチェックミスの結果であって、手放しで喜べません。


「僕はどんな形でも嬉しいよ。ラインでも、手紙でも、遠くから目が合うだけでも幸せだよ」


幸せ?


「うん、トラブルはどうか分からないけど、僕は、トラブルを感じるだけで幸せになるんだ」


幸せ……幸せになるとは、過程? 結果? 楽しいとは違う? 嬉しいとも違う?


「え、全部だよ。感じる良い気持ちを、ぜーんぶ幸せって言うんだよ。分かんない?」


全部……。


「トラブルも楽しかったり、嬉しい時があるでしょう?」


楽しかった時……嬉しかった時……ありました。そうか、私、幸せだったんだ……。はい、幸せでした。


「でしたって、過去形で言わないでよ。今は?」


今は……あなたと休日を過ごす事を楽しみにしているので幸せです。


「僕も楽しみにしてる。来週だよ」


……テオ、幸せは部分的なものを言うのですか? 嬉しい事があった時は幸せで、その後につらい事があったら不幸せで、最初の幸せは無かった事になる? 幸せは、こととき


「う、分かんなくなって来た。僕は、わぁ〜って幸せを感じて、だぁーって落ち込んで、で、わぁ〜をもらって、で、えーと……」


もらう? 幸せはもらうもの?


「違うよ。ファンから幸せをもらうけど、あ、トラブルからも幸せをもらってるから……あれ? 幸せって誰かからもらっているのかなぁ」


分かりません。


「僕も分かんなくなって来ちゃった。幸せを感じるのは誰かが僕に幸せをくれたから? 違うよね? 僕が幸せを感じているから僕の幸せであって、人それぞれ幸せは違くて…… あー、ダメだ。全然分かんなくなって来た。 ノエルー!ゼノー!セスー! ついでにジョンー! 助けてー!」


ついで⁈


 テオの大声に思わず笑い出すトラブル。


 トラブルに笑顔が戻り、テオはホッと胸をなでおろした。


「ごめんねトラブル。こんな当たり前の事、上手く説明してあげられなくて。僕は相変わらず言葉が不自由で、本当にごめん」


 トラブルは何かを言いかける。が、マネージャーがテオを迎えに入って来た。


「終わりましたか? さ、帰りますよ」

「うん。もう行くね、おやすみ」


おやすみなさい……。


 テオは手を振りながら医務室を後にした。


 トラブルはガラスに映った自分の顔を見ながら考える。


(こんな当たり前の事……。こんな当たり前の事が私には分からない……)

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